人生

やっていきましょう

112日目

自己肯定などというものは側から見れば気味の悪いものでしかない。自分は凄いということを人に自慢しているような、そういう印象を与えてしまう。自分は今、最も基礎的な肯定感の欠落を抱え、どうにかそれを埋め合わせなければ死ぬしかないという状況にあるのだが、そういう事情を知らない人間には、自分も、この記録も、ただのナルシストの驕りとしか映らないだろう。

それはある意味正しい。自分が勉強すること、本を読むこと、将来の展望を語ること、悲劇的な感傷に酔うこと、これらは全て自己満足でしかない。自分が今抱えている問題を、記事にしたり人に話そうとするのは、結局自分のことを他人に分からせようとしているということだ。それはつまり他人に自慢していることに他ならない。自分が自己肯定をすればそれだけ他人に迷惑がかかる。

そのことを強く自覚しつつ、自己肯定感を高めようとすると、自分は気がおかしくなる。

自己肯定とは、究極的には他人を押しのけて自分の要求を突きつけることであり、いくら体裁を整え美辞麗句を並べ立てたところで本質は変わらない。

しかし自分は今まで自分を卑下するよう教育されてきた。自分を持たず規範に忠実な人間であることを求められてきた。だから他人を押しのけ自分を通そうとすると、拒否反応を起こし、自分が気味の悪い生き物に見えてしまう。

自分は自分を肯定しようとすると、自分が気味の悪い生き物であると条件反射的に自分を否定してしまう。自分を肯定しようとすればますます自分を否定してしまう。こういう状況にあり、かえって自己否定すれば肯定感が生まれるという具合なので、自己肯定感を養うのは酷く難しく感じられる。

思うに、自己肯定感を自己否定で塗り替えようとするのは、精神の極限状態に対する適応だったのではないか。だが今はそうではない。少なくとも極限状態ではないし、誰も自分を縛りつける者はいない。

しかし自分は幻影に振り回されている。条件反射を治すことは難しい。すべての価値観を一旦リセットして尚、自分が向かう方向はいつも自己肯定ではなく自己否定だ。どこまで行っても自己否定しかない。

自己肯定が自己否定であり、自己否定が自己肯定であるという倒錯は、呪いのようなものだ。呪いを打ち破り、他人を押しのけ、自己肯定感を勝ち取ることに満足を覚えるようにならないと、決して自分は立ち上がることができないだろう。

多くの人間が自らの加害性に無自覚に生きている。その上で自己肯定感などという謳い文句を平然と公にする。自己肯定感とは自らが偏狭で醜く浅ましい欲望を求めることを肯定することである。自分はそれを理解した上で肯定しようとしている。文句を言う人間には敵意を示し、理解を示す者には歓迎するという、あの原始的なやり方を採用しようとしている。無自覚ならばどれほど良かったか。世界の混迷に目を向けず、一生自分の価値観の中で満足するような人間を見て自分は嫉妬する。