人生

やっていきましょう

136日目

自分の中で世間に対する諦めや失望が占める一方、嫉妬や羨望という感情もまた存在する。いつも自己責任という言葉で片付けてしまいがちだけれど、こうした感情は確かに存在する。今置かれている環境でなかったら、頑なに耐えることを選び機会を見誤らなければ、自分がこうなることはなかった。そう思ってしまう。

そんな中、社会の中で悠々と生きている人間達に対して嫉妬する時がある。自分はこれだけ努力をしてきたのに、なぜ自分は報われず、努力をさほどしていない人間が幸せそうなのか。なぜ自分だけが。

これは偏った見方だ。自分だけが苦しんでいるわけではない。また社会で悠々と生きている人間は目立っているから見えるだけであり、自分と同等、あるいはそれ以上に苦しんでいる人間は視界に入らない。悠々と生きているように見える人間でさえ、何かの苦しみを抱えていながら必死それを隠そうとしているのかもしれない。

そういうことが分かっていながら、ついこう思いたくなる。自分は世界で一番不幸な人間で、可哀想な人間だから、誰かに哀れんで欲しい。こういう感情に襲われる時がある。

だがそれを誰かに伝えるべきでないし、頼るべきではない。この感情に従うと、相手は自分を助けてくれる存在であると錯覚してしまう。願望が現状認識に取って代わってしまう。だが大抵の場合、他人は自分を助けてはくれない。他人は他人のことで精一杯だ。

すると自分は、他人は自分を助けてくれるはずなのに、なぜ助けてくれないのかと思うようになる。すると今度は、助けてくれるはずの他人が助けてくれないのは自分に悪意があるからだと思うようになる。あるいは、自分の今の深刻な状態が相手に伝わっていないからだと思うようになる。だから相手に過度な敵意を持ったり過度な同情を惹こうとする。意識してやってはいるわけではない。無意識にそうやってしまっている。

現状認識に取って代わった願望が、更なる願望に取って代わる。こうなると自分の思い込みがすべて正しくなり、相手がどうかということがもはや関係なくなる。思い込みが現実になる。

やや誇張が入っているかもしれないが、以前こうした心理状況に一時的に支配されたことがある。当時はかなり精神的に参っていたのだろう。しかし単なる強がりや逆張りでなく、心から物事を冷静に見つめ直してみると、それが上記の通りの思い込みであることが分かる。相手は自分に望んでいるような形で同情を示しはしないが、だからといってそれが敵意を示しているわけではない。何人かは自分が困っていることに対する相談を問題解決という形で向き合ってくれた。他人に茶化されたこともあったが、どちらかと言えば明確な悪意からではなく、茶化していい文脈を無意識に自分で敷いていたことが大半だった。

こうしたケースが結構ある。だがこうした面を見ようとしないで、自分はただひたすら自己欺瞞に陥っていた。自分は物を分かっているつもりだったが、何も分かっていなかった。

自分は最近物事の見方を変えた。他人は自分を独立した1人の人間として見ている。時には偏った見方や誤解もあるかもしれないが、とりあえず異質な人間として見ている。他人は相手との共通点を見出すことで親密になり、対立点を見出すことで疎遠になる。これが基本だ。

自分が妄想の中で抱いた過度な敵意や被害者意識は、相手との距離感を完全に度外視した自分勝手なものだ。人は大抵親密でない人間に憐みの情をかけるわけではないし、誰これ構わず敵意を振り撒いているわけではない。距離感を見定めて、他人にどうすべきかを考える。

基本的にこれから自分は他人を手放しに信用しない。自己憐憫や同情の願望も理性で抑える。まずは自分が自分として独立する道を選ぶ。それから他人と共生していくための距離感を見定める。常に回避するのではなく、回避すべき時と、立ち向かうべき時を見定める。