人生

やっていきましょう

137日目

学習とは何か、ということについて最近考えている。どういう学習が自分に適し、効果が期待できるのか。「何の」学習かによって答えは変わるかもしれない。だが自分はいずれの場合においても共通するような普遍的な学習態度、様々なことに応用できる学習法というものがあるような気がしてならない。そう思っていた。

ひとつの簡単な例を挙げる。サッカー選手のトレーニングと大学受験生の勉強法と演奏家の練習は、使う部位も状況も異なるけれど、ひとつの「学習」として括られる。いずれも共通するのは、今現在これまでの何かを蓄積しており、また目の前に解決すべき課題があり、その課題が現状のままでは達成困難な場合には、蓄積に修正を加えて、目的を達成しようとする、というものだ。

こうした態度を自分は学習と呼んでいる。だがあらゆる学習に対してこうした態度を忠実に再現したからといって、すべてがうまくいくわけではないと思う。広範囲に応用できる問題解決法は、当たり判定が広い分、クリティカルな解決策を示しはしない。つまり、自分が今やろうとしていることは「何でもPDCAサイクルを回せばうまくいく」みたいな発想なのだ。確かにそれで多くの問題は解決できるだろうが、PDCAサイクルは何をどう解決すればいいのかという具体的な方針を示しはしない。似たようなものにフレームワーク思考やロジカルシンキングなどがあるが、どれも似たようなものだと思う。当たり判定が広く有効だが、具体的な問題に対してクリティカルな解決策を示すことはない。

だから最近は、普遍的な学習態度みたいなものに少々懐疑的になっている。自分は普遍的な学習態度、様々なことに応用できる学習法といったものを望んでいる一方で、実はそんなものは無いのではないかとも思うようになった。あるいはそうした何でも応用できる普遍的な学習法というのは、実は何も語っていないことに等しいのではないかと思うようになった。

自分は専門家でないから浅い例を挙げることしかできないが、少しばかり例をあげてみたい。ここに弓と剣と槍があるとする。弓は遠くの敵を倒すのに使い、剣は身近な敵を倒すのに使う。槍は弓ほどではないにしろ、剣の射程よりは遠い敵を倒すのに使う。これら3つの武器はそれぞれ用途が異なる。これらに共通する普遍的な態度というのは「手を使って道具を扱う」「道具を使って敵を倒す」くらいのものでしかない。弓は遠くの標的に当てるための努力がいるし、剣は振り方や力加減を考える必要がある。槍は振るのか突くのか、隙をどうカバーするかというような問題がある。これらの問題はすべて方向性が違う。だから個別的にどれをどう扱えばいいかということをひたすら考えていれば、「手を使って道具を扱う」「道具を使って敵を倒す」というようなことはそもそも考える意味がないのではないか。

より普遍的な態度というならば、異なる方向性の道具があるという事実を認めて、「それぞれのものを使い分ける」ということになる。これは正しい。だが何も語っていないに等しい。なぜならば「それぞれのものを使い分ける」ためには、それぞれの問題に対処することしかできないからだ。

こうした普遍的な解決法を求めるのは、物事の解決に不安を抱いているからだ。前例のない問題に対処することに恐怖を感じている。だからこれさえあれば何でも解決できるというものを意識して安心を得ようとしているのだ。これは宗教の役割に近い。すべてが未知、すべてが前例がない。危険が身近にある。そんなときすべてを簡単に解決してくれるスーパーマンがいてくれたらとおもう。あるいは何でも解決してくれるドラえもんの道具があればいいとおもう。なぜそれを求めるか。それがあることで安心が得たいからだ。

だがそんなものはない。文明が成熟しあらゆるケースに対処できるようにはなってはきているものの、すべてのケースに同じ方法で対処することはできない。結局それぞれの場合に、それぞれの対処の仕方で問題を解決するしかない。面倒なことかもしれないが、それが一番の近道だと思う。