人生

やっていきましょう

150日目

運動を続けている。精神的に不安定になることが減った。しばらくはこのまま続けていく。睡眠時間は守れないことが多かった。1時は難しいかもしれない。遅くとも2時には寝るようにしたい。

向上心について少し考えていた。自分はひとつの不安を感じている。なぜ自分ばかりが苦難を背負わされなければならないのか。

この考えはそもそも前提が間違っている。誰も苦難を背負う必要はない。現状を改善しようとしなければよいのだ。1日1日を投げやりに生きればいい。感情と本能の赴くままに生きよ。そうすれば苦難は軽くなる。

より適切な表現を用いれば、自分はなぜ感情と本能の赴くままに生きないのか、ということに尽きる。これは重要な問いであるように思える。なぜなら感情と本能の赴くままに生きるということが、多くの人間をはじめ、あらゆる生物に共通する様式だからだ。

たとえば同世代の人間たちの間では、既に多くの人間が異性と付き合い始め、結婚し、子供を産んでいる。自分は何をバカな、と思う。本当にそれでいいのか。なぜそこまで自分の感情と本能に率直になれるのか。他人の人生に責任が取れるのか。この世界の情勢を見てどこに希望が持てるのか。自分に鞭を打ち、向上しようとは思わないのか。

こういうことを想うのはよくないことだ。何が正しく間違っているということはない。おそらく自分は妬んでいるだけだ。恋愛市場に不利な人間が自己を正当化しようとして向上心を言い訳に呪詛を吐くというのはよくあることだ。

だがそれにしても興味深い話ではある。自分の感情と本能がもたらす快楽によって、自分のやりたいことが規定される。自分が意識しなくても自分は勝手に流される。そのことを肯定するように人間はできている。だから本能に従って生きるということはとても簡単なことだ。勉強が面倒ならしない。考え方を改める必要もない。難しいことはやらない。そうして視界から消し去る。置かれた現状と本能だけが自分の方向性を指し示す。それで人間は生きていける。

なぜ自分はそうしないのか。なぜ自分は禁欲的な方向に走るのか。なぜ向上心を持ち、自分に不利な情報を直視しようとするのか。なぜ安易な人生を送ろうとせず、苦難と挫折しかない茨の道を選んだのか。なぜ理性という人間の苦しみの根源を自分は敢えて受け入れたのか。元々頭に恵まれずバカでありながら、なぜ色々と身の程をわきまえなかったのか。

自分には分からない。だがひとつだけ分かっていることがある。おそらくとても陳腐な妄想だが、自分は困難な状況にある方が燃える人間なのだ。自分のこれまでの記録を見れば明らかだが、自ら進んで縛りを行っている。アンチャーテッドではステルスと素手縛り、メタルギアではステルスとCQCと麻酔縛り、ラストオブアスではステルスと素手縛り、FF15ではテント縛り、スマブラでは知人2名相手に2:1縛り、そして最近始めた仁王でも素手縛りをやっている。当然、負け続ける。だがそんなことは構いはしない。

縛りはゲームに留まらない。現実でも酒やたばこや女を断っている。無理して何度も100kmを歩いたことがある。山にも行く。高い壁に挑戦し続ける。自殺を考えるくらいまで、自分を追い詰め続ける。自分は価値の無い人間だと言い続ける。

なぜここまでするのか。自分はおそらくこの世界に幻滅していて、自己破壊衝動の赴くまま自分を追い込むことで自殺しようとしているのだ。あるいは、何か、自分が努力していることによって、誰かから認められたいのだ。自分が生きているということを歓迎してもらいたいのだ。

いずれにせよ、自分は逆境に立ち向かわなければならないという呪いに憑りつかれている。不幸なことに、その向上心ゆえにうまくいった試しはない。向上心という気分があるだけで、高い難易度を超えられるほどの実力がない。不用意に挑み続け、不用意に失敗する。それで偉くなったつもりだろうか。実際のところ、まだ一歩も前進していない。