人生

やっていきましょう

152日目

自分の弱点は物事を正確に判断できていないことだ。今までの自分はそんなことを考えようともしなかった。自分は普通に物事を考えられていると思っていた。だが普通というものが何も分からなくなり、自分で普通を定義しなおさなければならなくなった。これは怪我の功名だった。自分はその日その日の気分によって雑に物事を認識していた自分から、何かを理解するということが、すなわち自分の頭で目の前の問題を定義するということであることに気づける自分になった。だがこれではまだ初歩の段階だ。問題はそれをどう生かすかということだ。

定義とは気づきの一種にすぎない。それは目の前のそれが何であり、どういう問題が含まれているか、ということを意味するものでしかない。気づきの方向性はまだまだたくさんある。たとえば戦略。目の前の目標に対してどういうアプローチの仕方ができるか。どれだけ目標に近づけることができるか。また戦略を下支えする手段についても言える。どの素材を使うか。どの教材を使うか。誰に助けを求めるか。それらがどれだけ必要か。また、評価という気づきもある。どういう基準で、それに対してどういう価値が認められるか。主観的な感じ方なのか、定量的な数値なのか。他にもいくつかあるだろうが、今はこれくらいにしておく。

これらは独立したものと考えられがちだが、決してそうではない。大ざっぱに言えば元は一つのものだと思っている。「自分の頭で考える」ということだ。気づきの例はそれらを細分化したにすぎない。ひどく粗く漠然としたイメージだが、それらはパズルのピースみたいに繋げたり取り替えたりできるものだと考えている。定義はこれ、戦略はこれ、手段はこれ、評価はこれ、といったような組み合わせの問題だ。定義というひとつの枠内であっても他の気づきを援用できる。つまり定義づけることへの戦略、定義を発生させるための手段、定義に対する評価、といったことも十分考えられる。それでこうした組み合わせゲームを、実行という変換機に繋げることで、現実のものとして立ち現れてくると考える。

これは自分のイメージであって、実際すべてがそれで済むわけではない。何かの感情であったり、自分の頭に刷り込まれた偏見が悪影響し、思考を妨げるということはよくある。それに外因が作用して、今までうまくいっていたことが急にうまくいかなくなることもある。ただ自分のイメージとしては、物事を細分化し、精査し、ひとつひとつ問題を解決し、すべてを組み合わせて統合する、ということが自分の定義になっている。今後変わるかもしれないし、これが間違っているかもしれないけれど、少なくとも今の時点ではそう思っている。

より正確に言えば、ある領域に関する問題解決に必要な思考が、別の領域でも応用できるということ、それらの関連性から見えたパターンを集めて、抽象的なラベルを張って認識し、いつでもそれを引き出せるようにする、ということをやろうとしている。そうすれば頭が混乱しているときに、物事を瞬時に整理することができる。

個人的な話に戻ると、自分は数ある気づきの中で、どうにも戦略が苦手なように感じる。それと実行。何が有効であるかを考える際に、自分の感じ方や印象に囚われてしまう。これは過去のトラウマや自分の自信の無さに由来している。またとにかく気が散りやすく面倒なことが苦手なので、コツコツやるということができない。だからじっくり戦略を立てるということがどうにもできない。だが不思議なことに、物事が動き出してからはコツコツやることができる。自分が苦手なのはスタート。初めの段階でほとんど躓く。たとえば自分は絵を描きたいと思っている。だがおそらく絵を描かないだろう。面倒だし、それをやったところでどうしようもない。だがもし昨日やっていたら明日はやれるだろう。そういう人間だ。

おそらく「決断」という新たなラベリングが必要になってくる。実行する覚悟を決める。発願。不安症でよせばいいのに様々なリスクを勝手に思いつきながら、それでも実行に踏み切る勇気。それが必要だ。だがそれは無謀であるべきではない。リスク管理のもとに安全策を予めうち、それでも回収不能なミスは自らの責任で受け入れるということだ。これが自分には最も足りない。とにかく自分は今、世間に出られないほど臆病というわけだ。

自分は臆病なくせに挑戦しようとする。一見するとかっこ悪い。滑稽だし、自分自身情けなく感じるときがある。だがひとつの決断に救われたことはある。それは記録をつけるということだ。自分の頭の中の曖昧で混乱した情報を整理できるようになった。それに自分の人生を自分で考えて送るという決意にもなった。今までは第三者のお墨付きがなければ不安だった。自分の判断に自信が持てなかった。今ではすこしマシになった。

不安を抱きやすい傾向が自分にはある。だから少しでもそれを減らそうとして、なかなか決断することができない。決断には責任が伴う。何かがあったときには、自分が間違っていたということを認めなければならない。それは大きな負担だ。

以前どこかの記事に書いたが、やはり物事を抽象的に捉えすぎることが原因であるように思う。自分が問題に直面したとき、その背後にある恐怖をあらゆる点で関連付けてしまう。マクロな目線で見てしまうのだ。戦略的に考えれば、物事の視野を広げるとその分解像度が下がってしまう。高いビルから地上を見下ろせば、そこにいる人間は点にしか見えない。その点が経験してきた数々の苦難と挫折を見下ろす側に想像することはできない。そういう話に興味があるのなら、会って直接話すことだ。酒を飲みながら腹を割って話せばいい。

マクロな目線で見ることは重要だ。物事の全体像が見える。だがそれは浅い全体像だ。実際それらは、浅い像としてではなくひとつひとつの深みのあるものとして確かに存在する。だが見かけ上、それらは浅く見えるということだ。なぜならひとつひとつを深みのあるものとしてすべてを捕えようとすれば人間の脳はパンクする。脳にできることには限界がある。

だから同時にミクロな目線で見ることも重要だ。戦略的に見れば視野を狭めた分他のことが見えなくなるが、それだけ解像度が増す。限られた範囲において、より正確に物事が見えるようになる。マクロな目線で抱いていた不安は、より具体的な、問題の欠陥という形で現れてくる。それさえ不安を抱くことがあるかもしれないが、限られた範囲の外に抱くはずの不安をカットできる。その問題の中での不安と戦えばいい。

だから自分がスマブラに対して不安を抱いているときは、少なくともミクロな視点においては、人生の無意味さについて不安を抱く必要はないし、自殺のことを考えなくてもいい。あとは自分の不安に対する耐性を上げていけばいい。

具体的に考えることは、自分の不安を軽減するばかりでなく、自分の決断しやすさにも影響してくると思う。たとえば料理を作るという問題に対して、まず台所に行くという手順があったとする。その後に色々面倒なことをやらされるのだが、とにかく台所に行くことが求められている。ならば自分はそのことだけを考えたらどうか。台所に行き、冷蔵庫から具材を取り出し、調理器具を用意し、調理し、食器を用意し、提供し、最後に洗い流す。ここまでの過程がひどく面倒で不快なので自分は今まで料理をしたことがないのだが、台所に行くということだけを考えたらどうか。それは寝床の手すりに手をつき、手に力を入れて起き上がり、膝を曲げ、足に力を入れて立ち、部屋の扉を開けて、階段を下りて、台所に至るという過程にわざわざ不安を覚えてやりたくないと思うほどには難しくない。それは恐ろしく簡単で、シンプルなものだ。だから台所に行くことだけを考えられれば、少なくとも台所に行くことに不安を感じることはない。この調子ですべての問題をひとつづつこなしていくと、気が付いたら終わっているかもしれない。この意外な出来事が自分の自信になって、自分は料理できるのだと思えるようになるかもしれない。

こういうところをもう少し考える必要がある。つまり決断とは解決不可能な問題ではなく、解決できるものとそうでないものがあることをまず認識し、解決できるものから着手していくことができる問題なのだ。その点を今後は意識していきたい。自分の弱点は戦略と行動、そして決断だ。