人生

やっていきましょう

179日目

ある知人にどうしたらそんな風に自信が持てるのか聞いた事がある。そのとき彼はこう答えた。「自分を見ないことだ。FPSのように主観だけを見ること」その後彼は自分のことについて滔々と語り始めた。だが自分の目を特に惹いたのは、その一点だけだった。

それはある意味自分の葛藤の問題について一つの答えを提供していた。どこまでも主観的に生きるということ。主観に信頼を置くこと。そのことが自信につながるということだ。

自分はそうではなかった。自分には自信がない。どこまでも主観的に生きていないからだ。どこか社会の目という視点で自分を捉えている。その視点は主観が認める要望や、意思を優越する。不動の義務があり、いつもそれに従わなければならなかった。

ここで一つの疑問が起こる。一体その絶対的な信頼における主観とは何なのか。主観的に生きるということがどうして人を満足させるのか。主観はなぜ監視されないのか。

答えは簡単だ。疑う理由がない。疑う必要がない。ゆえに知る必要がない。欲望があり、それに反応するだけだ。反応に対していかなる結果が及ぼうとも、欲望が満たされたという純然たる成果があり、それは決して失われない。これが事実だ。人はただこの状態だけを見ればいい。この状態を修正する動機などどこにもないのだから、変わることなどありえない。

いったいこの当たり前の事実に対して何を疑う必要があるのか。自分の場合、自分の欲望がありそれを実行し、それが社会で受け入れられた記憶がない。あるいは、自分の欲望を実行したことで、そこに満足できた記憶がない。不全感不燃焼感だけがあり、とにかくそれが他人にも、自分にも歓迎されていないということが分かっていた。

だが自分の知る限り、大抵の人はそうではない。自分の満足というものに対して全面的な信頼がある。とにかく主観を信じている。彼らは自分が主観に裏切られたことがないのだろうか。主観によって破滅に導かれたことはないのだろうか。自分は何度もあると言いたい。そして何度も挫折した。だが彼らは違う。彼らはあまりに素朴に自分というものを信じすぎている。そして幸運なことに、それを共有できることが自明だと思っている。

これではっきりした。人は自分が警戒しすぎる以上に、主観というものを信じている。そしてその主観をもとに、主体的に生きることができている。それがどんなに残酷なことであれ、人はそうやって生きている。生きていける。

ずっと前、自分はそういう人間の態度を軽蔑していた。だが今は違う。むしろ尊敬の目をもって眺めている。この自分にはしばしば驚かされる。なぜならそこには皮肉があまり込められていないからだ。人間がどこに向かおうとしているのか分からず尻ごみをしている自分の遥か向こうで、己の欲求を素朴に信じて何か行動しようとしている人々を見ると、とても勇敢な行為に思える。自分はついうっかり尊敬のまなざしで「それにはいったい何の意味があるのですか」と問いかけたくなる。彼らはその問について「そこに山があるから」とか「なにかがおれたちを動かしている!!」というだろう。その素朴さに、自分の老いた精神は心打たれる。