人生

やっていきましょう

431日目

未だに自明性というものを獲得できないでいる。多くの人間が自明性の内側にありながら、自分はその外側に放り出されている。自明の内側にある人間たちは、自らの抱く感情の正しさが自明であり、自らの思考する理屈、あるいは本人がただそう呼んでいるにすぎない印象の正当性を堅く信じている。楽しいと思ったことをそのまま楽しいと思うこと、不満を抱いている自分がそのまま不満を抱くこと、正しいと思ったことを正しいと思うことに何ら躊躇いがない。

自らの感情や印象に対する全面的な信頼を抱いている人間に、この問題は理解してもらえない。なぜならそれが当たり前だからだ。そういう人間が多数であるということが自分の生きづらさの原因になっている。1年前からそれが異邦の感覚であると言及してきた。本当に彼らが別種の生き物であるようにしか思えなくなっている。

自分は気を抜くと、常になにかを間違い得る可能性と隣り合わせにあると感じている。自分の印象は自分に有利な点ばかりを誇張して捉えるだろうし、自分の思考は限られた材料から雑な結論を下すことしかできない。自分の頭は悪く、意識は移ろいやすい。だから常に自分の考えを批判的な検討に晒し続けなければ、正しい判断は下せないと考えている。

こうした状況下では自明性は育まれない。常に精神的なプレッシャーに晒され続けている人間に、安心の自明性など分かるはずがない。だが世間の人間は、精神的な圧力が自己にそれほど過度にかかっていないからこそ、自明性の中に身を置くことができている。

正直に言えば、自分はそのことに嫉妬している。自分はバイアスに対する嫌悪、話の通じない人間に対する憎悪から、自分はそうなるまいとほとんど毎日自分を批判の目に晒す道を選んだ。だから自己責任ではあるのだが、この苦痛によって自分が報われることはなく、一方で自らを批評の目に晒さずに生きている人間が日々満足している様を見ると、自らの無念に絶望する。人々が自明の内側で自らの感情を信じられている一方で、自分はこのまま僅かな正気を得るために無為に苦しみ続け、じわじわと苦しんで死ぬという事実に耐えきれなくなる。

先日の議論を思い出したい。自分もまた自明を求めていいのではないか。精神を安定させるために、不都合な事実ばかりでなく都合の良い事実にも目を向けてもいいはずだ。あるいは事実から一旦離れ自分の主観を大事にしてもいい。これは弱さには相違ないが、無理をするだけが選択ではない。他人の自明と安定に嫉妬するよりも、いまの自分の見方を変えた方がいい。