人生

やっていきましょう

259日目

自分に不利な事実をごまかすことができない。自分にとって都合の良い解釈ができない。しようとしても、自分を監視する自分の目線がそれを許さない。自らの意思からというよりは強迫観念からそうせざるを得ない。

たとえば自分を守るために無理をしなくていいと妥協することができない。自分より優れている人間が大勢いるという事実を前に、現状に甘んじることもできない。自分が悪いわけじゃなく、世間が悪いというようには思えない。悪いのはやはり自分の能力の至らなさと、ここまで生きてきた中で歪められてきた自分の価値観だろう。そういう自己言及を何年か続けてきた。目新しいことではない。だがそれが、結果として自分の素朴な感情や価値観を殺すことになった。

最近思うのは、人はあっさりと報われないまま終わることもあるということだ。ゲームを例に挙げれば、道端で倒れている死体や、何らかのイベントで死んでしまうNPCなどがそれだ。探偵小説で早々と殺される被害者を見たことがあるだろうか。自分はもう彼らの名前を誰も思い出せない。映画で真っ先に銃で撃たれるモブの末路を誰が案じるのか。彼らは舞台を際立たせるために非情にも、報われることもなく、死に導かれた。

それは自分にとっておそらくもっとも不利な事実だろう。何者にもなれず終わるというのは、自分がそれを望んでいなかったわけではないだけに、つらいものがある。だが先に述べたモブもまた、モブのまま死ぬつもりはなかっただろう。死はほとんど偶然的に、本人の儚い希望をあっさりとかすめ取っていく。

アイデンティティの確立はもはや現代において普遍的な問題となっており、それゆえ自分にとっても切実な問題だった。だが自分にとって都合の良い解釈を排してばかりいると、人は誰しも何者ではなく、その事実を忘却している自己あるいは他者からの評価、によって自分が何者かであるという錯誤に至っているということを意識せざるを得なくなる。

そうして今の自分がある。自分は前時代のように神から与えられた無上の価値を付与されているという信仰を持てないでいるし、近代初頭のフロンティアスピリットに近い新しいものへの積極的な価値づけもできていない。黙っていても認めてくれる知人はいない。自分は放っておけば誰からも価値を認められない人間だ。唯一の拠り所は己の心だが、それすらも不都合な事実を見続けるという(まさしく自分らしい)制約によって殺されている。

この視点は自分にとって明らかに有用であるからこそ長年放置されてきた。だがその帰結として自分は自分を失った。自分は4年前、自分を取り戻そうと奮闘していたが、自分がないという事実を克服できずに挫折した。あの時の記憶は今でも残っている。情けない姿だった。周りに自分を認めてもらおうと媚を売っていたが、それを認めたくないという思いで自分をごまかしていた時期だった。

要するに、自分は不都合な事実を見続けた結果自分を信じられなくなっているが、創作物が周りから評価されることによって自分に自信を持たせようとしていたのだ。だが自分の二束三文の創作に何ら価値を見いだせないのに、どうして誰かに評価されると思えるのか。あるいは知りあいのよしみに託けて、本意ではない世辞の評価を得ることに何の意味があるのか。例に漏れずこうした不都合な事実に目を背けられず、創作に価値を見いだせなくなった(とはいえ完全に喪失したのは、やはり2018年だった)。

そもそも自分が創作を始めたのは知人からの誘いだった。彼は創作の価値を絶対的に認めていて、それを周りに布教していた。自分は小さい頃に簡単な創作をしていたこともあり、また手に負えないレベルで自分を信じられなくなっていたので、創作を自己肯定の契機にしようと思っていた。自己否定しかなかった自分に新たな新天地を開いてくれたという点で彼には感謝している。ただ自分はどうしても自己不信が先行してしまい、自分が本当に表現したいのかどうかもわからず、なんとなく他人の評価を気にしたり、媚びるようになってしまった。一方彼は創作の価値を信じ切っていたので、自分との間に齟齬が生まれる形となった。

彼からすれば、自分は同じように創作を志していた人間だと思っていたが、実際はそうでなかったという失望があるだろう。それで次第に関わることがなくなった。自分はそれを仕方ないと思う。自分が価値を信じることができなかったのは事実だからだ。そしてまさしく、何かを信じることができなかったからこそ、自分は就活で弾かれ、院試で弾かれ、露頭に迷っている。悪いのはやはり自分の至らなさだ。

今でも創作はしている。だが以前ほどには力が入らない。かつて自分は死にかけていた自分の価値観をどうにか生かそうと必死だった。だが今は完全に死んだ。あるいはもう治る見込みのない末期の状態だ。自分の死は近いが、その前にせめて自分の中に残る価値に対する素朴な信頼を看取ってやろうという思いに移行している。皮肉なものだが、そうしてはじめて自分の足で動こうとしはじめている。