人生

やっていきましょう

187日目

自分の精神に起きている何らか状況を理解しようとするとき、それはどのような方法で可能となるのか。こうしたことをつい考えてしまう。自分は自分の心に起きていることを理解しているつもりでいる。だが理解していると言う時、自分は無意識のうちに何らかの前提を自明視している。

たとえば自分は今まで自分に率直に生きてこなかった。自分を否定し、自分を殺して環境に適応しようと努力した。その結果自分は精神が狂い、自分に過度な圧力をかけながらも前進しようとしたが、2018年の挫折を機にアイデンティティが崩壊した。そう自分は思っている。

このロジックに従って今の現状があると考えている。だがこれは本当に正しいのか。これは現在という地点から過去を振り返り、過去の情報を編集し、ひとつのドラマに仕立て上げているだけではないのか。だとすればそれは自己欺瞞ではないのか。

自分は物事を認識しようとする際、それが物語であるかのように把握する癖がある。本来これが意味するところは、出来事を時系列順に並べたということにすぎない。まさに、そのこと以外を意味するものではないはずだ。

そこに原因を認めようとすると話はややこしくなる。自分が原因を原因と呼んでいるのは、自分が原因だと思い込みたいからではないのか。環境に適応するために自分を殺して生きてきた、それが原因で自分のアイデンティティが歪んだ、というのは本当に自己の破滅をもたらした原因なのか。原因のひとつにすぎないのではないか。そもそも遺伝的に欠陥があり、それが外界に晒されたことで顕在化したということも言うことができるのではないか。

ようするに、自分が編集した挫折の物語の無謬性を自分の手によって立証することができない。物語は、自分がそれが原因であると思いたいがゆえにそう編集したものであり、おおかた自分の認識に沿ったものではあるのだけれど、自己欺瞞であることと紙一重である。

物語は神話と密接な関係にあるという点で宗教的だと思う。自分には、目に見えないけれど神様がいると思うことと、自分のアイデンティティの歪みが挫折をもたらしたと思うこと、自分という存在がどこにもないから何事も肯定できないと思うことの違いが分からない。そう思いたいからそう思っているのである。以前ツイッターで宗教を馬鹿にするやつは現代科学という代替の宗教があるゆえに笑っていられるという話を聞いたが、自分も同感だ。宗教、あるいは物語というのは広義の意味で「自分が信じたいものを信じる」ものであるように思う。

非常に陳腐な話になるが、だとすればこれは何を信じるかという問題として扱ってよいと思う。自分は過去の数々の挫折によって人格が歪められ社会から脱落したというのは、自分の生み出した物語にすぎない。この物語の真偽が証明できない、あるいは疑いの余地があるのならば、それを自分から切り離してもいいのではないか。なぜならそうした挫折の物語を自身に組み込むことには何ら利益がないからだ。それよりも行動につなげるポジティブな詭弁を内在化させた方がまだマシであるように思う(何をもってマシかというと、おそらく資本主義のルールに適応しやすいというような意味だと思う)

自分の利益になるような神話を上書きして、あたかもその物語が既に存在していたかのように思い込むことはできないか。仮にそれが偽物であったとして、その物語が自分の挫折の物語に比べどれほど信頼できないものなのか。おそらくどちらも同じくらい信用できないものであるに違いない。

だがそんなことがうまくいくとは思えない。自分が何を信じたいかということは切ったり張ったりできるようなものではない。強力な圧力でもかければいいが、それはそれで新たな歪みを生む。とりあえず今は可能性のひとつとして考えておきたい。やるにしても、もう少し緩やかな方法もあるはずだ。

 

ところで自分の認識を変えることによって物事の捉え方を変えるということは自己啓発本ではよくやる手口だ。自分も似たようなことを大学の頃仏教系の新興宗教団体にやられた記憶がある(この世は灰色で生きる意味がない→だから答えを求めるための勉強(入信)をしよう)。明らかに人生に意味がないのであれば、宗教を信じる意味などない。彼らは欺瞞に酔っていたのである。

だが自分も、結局は彼らと同じではないのか。虚無主義、というのはひとつのイデオロギーだけれど、ある意味これも自分がそう信じたいと思っているものにすぎない。以前自分は何度も、ニヒリズムというものは必ずしも絶望の表現であるとは限らないと述べてきた。つまり、あらゆるものに意味がないという思うことは、ただの事実の追認であって、そこに悲劇性や絶望という意味を与える意味すらないのである。たとえば科学は以前から、意味を介させずに現象を理解する術を心得ている。だが自分はニヒリズムという世界観、挫折と崩壊による世界の喪失感に酔っている。自分は物語を失った物語の中にある。

この物語はいかなる物語によっても上書きしようがない。今の自分はそう思っている。ただ、自分はそれをどうにか相対化したいと思っている。いつまでも挫折したままくたばっていたくないというのが本心である。そこで記録をつけ、成長の物語という演出をここでやることにしている。この記録ももうすぐ200日を超えるが、明らかに以前よりは相対化できるようになっている。それは自分の中に、前進という虚構の物語を内在化することに成功したからだ。無論それは喪失感をなかったことにするものではないが、自分の中に二つの価値観を置いたことで舵取りがやりやすくなった。一般に言うポジティブとネガティブのようなものだ。自分はここ数か月で使い分けというものを学習した。

上書きとまではいかないが、相対化できたという点でも大きな進歩だと思う。とはいえ物語という虚構に頼らなければならない現状であり、すぐにそれがフェイクだと思いたくなる癖は一向にぬぐえない。何をしても虚構に感じる。その失望を少しでも克服できたらと思う。