人生

やっていきましょう

224日目

今日は作業を中止する。アイデアが思い浮かばなかったので別のことに目を向ける。何か書こうとしたが自分の頭の中を整理することができなかった。だからまとまりのある文章ではないが、あまり形式にとらわれず自由に書いてみたいと思う。

最近の自分を内省すると以前より微妙に頭を使うことが無くなったと感じる。これは慣れもあるだろうが、ある一定の成果以上のことを期待しなくなったことが大きい。これは頭で考えないということではなく、心が渇望しなくなったということだ。

欲するということが次第になくなっている。余生を送る老人のように、毎日ぼんやりしている。自分が生きているという実感が薄れてきている。落ち込むことも減ったが、喜ぶことも減った。少し楽しくなることもあれば、面白いと思うこともあるが、それが自分に決定的な影響を与えない。要するに、自分の中の危機感が薄れてきている。

自分は闘わなければならない。自分が挫折に屈しないということを証明しなければならない。嵐の中を生き延びたという自負を持たなければならない。そうして自分は初めて自分の存在を証明できる。だが結局それは忍耐の問題であって、自分の好みや意思の問題ではない。自分は挫折、あるいは自明性の喪失という不可避の状況に対してこれまで「耐える」ということしかしていない。ひたすら耐えて耐えて、自分をストイックに鍛え上げようとしている。だがそれはどこか受動的だ。本気になれていない。

自分は未だかつて、自分の興味に従って、自分の目標を主体的にこなせているという実感を持てたことがない。記録を初めて200日以上経ったが、自分が本当にしたいことがまだ分からない。主体的に行動したのは事実だ。自分の好みの源泉を過去に遡り、かつて自分がやりたかったことを一通り触れてきた。それは自分の本心からでもあっただろうし、コンプレックスからでもあっただろう。だがそれらは究極のところで自分の救いにはならなかった。

先日自分の大学から頼りが届いてきた。そこにある文章は月並みだったが、ふと目にとまった言葉がある。本当に社会に出て何かしたいなら一度や二度の失敗で悲観することはない、といったようなものだった。その時思ったのだが、自分は挫折というものを2度しか経験していない。一度は現役のときの大学受験、もう一度は2018年だ。それ以外は絶望的な状況ではあったけれど、失敗と呼べるほどのなにか困難な壁を挑戦したわけではなかった。あるいは気づいていないだけでいくつかの試みは挑戦して成功していたのだった。

何か感傷的な気分になっている。たかだか2度の失敗程度で人生が終わったと思っているのだ。それに1度目の失敗は浪人して現役の頃の第一志望校に受かっている。だから実際、挫折らしい挫折は1度しかない(これが信じられないほど致命的な挫折だったのだが)。この一撃で自分の意欲、向上心、性格、価値観、何もかもが変わってしまったのかと思うと驚きだ。そしてあろうことか、自分は以降余生を送りはじめている。

ここから自分の人生への鼓舞を導きだせるほど自分は強くない。それでも自分が挫折したことを大げさにとらえる割には、その実態はあまりにありきたりで、平凡で、軽い問題であるように感じられる。たかが一度の失敗だ。

こうした問題の矮小化については以前考えた。その時考えたことは、きっかけは些細なことでも自分を壊すには十分な力になるということだった。そういう現象は世の中にいくらでもある。このような問題が顕在化する状況の背後には、簡単な訓練や応急処置程度では回復しないほどのダメージと不安要素がある。そうした蓄積はそう簡単に改善できるものではない。

自分の精神の不安定の根源には、他人との関わりが持てないことがある。自分は孤独であり続ける道を選び、それを正当化するために様々な歪んだ価値観を生み出し続けた。その歪んだ価値観を自分は全面的に支持し続けた。周囲の圧力と、被害妄想、猜疑心、そして過剰な追い込み、それによって生まれた価値観にのみ自分は生きていた。そしてそれが崩れ去ったとき、自分はもう、真っ当に生きるのを諦めた。

自分が観察した限り、大抵の人間は自分の精神を致命的まで追い込むことがない。周りに理解者がいないという困難な状況を突破するために、自分が生み出した、脆弱で、歪んだ価値観のただひとつを生きる糧として、死ぬか生きるかの世界に生きているわけではない。大抵の人は自分の心の拠り所を分散させている。自分に依ってのみ生きようとしているのではなく、誰かに頼ることを自明にしている。流動的な価値観の中にあって、温和な傾向にある。同じ時代を生きていながら、なぜこうも違うのかと不思議に思っていた。おそらく愛情や友情に困らないで生きてきたのだろう。そういう人間の方がこの世界では適応できる。

もし自分がそうだったら、自分は真っ当に生きていられただろう。ここまで致命的な挫折を味わうこともなかっただろう。不要な苦しみを覚える必要もなかったかもしれない。だが実際はそうではない。自分は群れることによって救われる人間ではなかった。

自分にできることといえば、歪みを多少矯正するくらいだ。その程度の力しかない。少しずつ社会に適応できる状態にする。自分が壊れた人間だろうが、終わった人間だろうが、そうすることしかできない。自分の意欲や渇望がなかったとしても、それがどんなにつらいことであっても、矯正するしかない。自分の意欲や渇望が発生しやすい状態を作るしかない。そしてあとはただ自分が自分らしくあることができるよう祈るばかりだ。