人生

やっていきましょう

244日目

習慣2日目。習慣について考えたところを簡潔にまとめる。

まず体調の変化について。体が軽く感じる。階段を駆け上がったり、走り出すとき、今までは確かな重さを感じていたが、最近では身体が空気のように軽いと感じる。足の筋肉がついたからだろう。体重が減ったのかもしれない。

つぎに腕の筋肉がついていることに気が付いた。1日20*2回、1週間腕立て伏せを繰り返していた。前は自分の枕くらいは柔らかかったが、今では消しゴムほどの堅さだ(大して変わらないのか)。

腹筋についていくつか調べた。やはり腰を痛める要因になりそうだ。腰を痛めない腹筋運動について調べたところ、足上げクランチが有効であるように思われた。いくつか比較してみても、さほど激しい運動ではなく腰を痛めないものなので、これなら持続して行えそうだと思った(腰を鍛える運動についてはまだ保留にする。新しいものをどんどん取り入れると持続しないということを学習したからだ)。

 

つぎに今日思ったことをまとめる。

運動をすることで気分が落ち込むことがない。それどころか挑戦的になり、攻撃的になっている。こういう状態が「当たり前」になればいいものだ。努力が基本、挑戦が基本、常にハングリー精神を抱き続ける。結構なことだ。

だが一方で虚しさを感じる。運動は自分のメンタルの改善と、健康的な思考を維持する目的で始めた。おそらく今運動を止めるとまたその状態に戻ってしまうだろう。だから運動を続けるほかにない。だが運動それ自体が、どうも自分のゴールになってしまっているような気がしてならない。その先の何かを実行するために運動で鍛えているはずなのだが、不毛な運動を続けてそこに満足してしまっている。無目的な運動だ。

どこか食事に近い。食事を摂らなければ人は死ぬ。だから食事を摂らない選択肢など考えられない。だから食事を摂る。だが自分は食事によって本来エネルギーを蓄え、それによって何かを成し遂げるために食事を摂っていたはずだ。だがその成し遂げるための何かが何か分からない。分からないまま食事を摂り続ける。

自分にとって食事も運動も手段でしかない。究極の目的はそこにはない。にもかかわらず自分には持つべきビジョンがない。結果手段だけが残り、それでもいつか目標を見いだせるという期待と、実際には何も見いだせないだろうという諦めを抱えながら、習慣を黙々とこなしている。

食事や運動に満足したくないというのは自分のわがままだろうか。生きるのに精いっぱいな人間は、ありのままの自分を実現する余裕がない。そういう自己の理想を実現するということは、人生に余裕があってはじめてできる。この余裕があってはじめて、自己実現の物語に耽ることができる。あるいは人生に余裕がない人間が、理想という期待によって救われることもある。どこの誰から啓蒙されたか知らないが、理想という吊るされたニンジンが、その人に生きる糧を与える場合もある。

だが自分の中ですべての意味や価値観、語るべき物語はほとんど死んだ。それは明らかだ。価値が死んだからこそ、運動や食事といった手段を前提とした、高次の目的を設定できないでいる。まさしく自分の中の価値が死んだゆえに、それ以上先には進めないでいる。

この世には優れた手段が山ほどあり、それらを運用して何かの目的を達成することができる。ただ、そういう残酷な事実だけがある。そこにはどういう目的を果たすべきかであるとか、どういう自分になりたいかというものがまったく存在しない。

だから自分が今できることといえば、たかだか手段でしかない(と、思いたがっている)運動や食事を疑似的な目的と捉え、自分がそうすることに価値があるのだと積極的に肯定することだけだ。ひどく滑稽で、絶望的な試みだ。不毛でしかない。それでもやらないよりは幾分マシであるように思う。実際に自分は以前より健康になっている。だからどうしたという話だが。

今更運動を捨てる気もない。何もわからなくてもとりあえずは自分に利するであろうことを選択する。選択できる。この1年で学んだことは、まさにそのことだ。答えがでなくてもまずは無難な方向に舵を取る。自分の選択の安定的な基盤を固める。それが自分の今すぐ求めている答えではないかもしれないが、自分はまだ心と体に深い傷を負い、満身創痍であるということを忘れてはならない。自分はまだ小さな目標で満足するくらいが丁度いい。