人生

やっていきましょう

256日目

『Dead Cells』の体験期間が終わった。数日だけだったが、なんとか2つ目の難易度まではクリアできた。期限の1時間前だった。そこで燃え尽きてしまった。セールもあって1700円程度で買えるので買おうか迷っていたが、今になって躊躇っている。あまりに中毒性が高く他のことに手がつけられなくなる。

『Dead Cells』を攻略する際に攻略サイトを参考にした。自分は今まで攻略サイトを見るのは邪道だと考え、新しいゲームに着手する際には必ず自分の手でクリアしようとしていた。相当な時間はかかったが、大抵はそれでクリアできた。だがどうしても自分の実力だけでは困難な状況が出てくる。自分で考えるのが面倒な局面もある。そういうわけでネットで調べて参考することにした。

攻略サイトを見てまず思ったのは驚愕だった。今まで雲をつかむような、漠然とした感覚の中で対処していたことが、ウソのように明瞭になった。数ある武器の中で何が有効か、どういうステータスを振り分ければいいか。それらのアイデアは自分の頭の中では思いつかなかったものばかりだった。答えが見えるということはこれほどありがたいことなのかと思った。知人が攻略サイトを見ることを推奨する理由が分かった。

とはいえ『Dead Cells』ではあまり攻略サイトを使わなかった。無料期間が近づいているので、時間短縮のために利用した側面が大きい。攻略サイトの一番の恩恵をあずかったのは『Besiege』だった。これもまた自分が最近買ったゲームだったが、攻略サイトや有志の動画を参考にするのとしないのでは、雲泥の差があることを思い知らされた。最低限のパーツから兵器や車輪、ロープ、プロペラなどを組み合わせて最強の乗り物を作るというゲームだが、有志の生み出したその独創的な機構を前にして自分の至らなさを知ることとなった。それらはすべてゲームに元々備え付けられているパーツで作ることができ、手段さえ知っていれば自分でも同じものを作ることができる。

wikiを見てからわずか数分でいつでもカタパルトが作れるくらいにはなった。それだけの時間短縮になったことに心底驚いた。自分がいつか言及したことだが、勉強は過去に明らかにされた妥当な定義、用法、影響などを身に着けることで、今後の状況に柔軟に対応できるということが最大の利点であった。誰しも知識ゼロの段階から物事に挑む必要はない。少なくとも基礎的な知識を身に着けることで、対処できる問題量が圧倒的に増える。しかも必要以上に試行錯誤を経る必要がないので効率が良い。

これが他の活動についてもいえることではないのか。たとえば絵を描くとしたら、絵の描き方を忠実に吸収する。体系的な情報を取り入れどんどん吸収する。そうすることで表現できる範囲が急速に広がる。何も学ばずに自分に課した苦行を経ることで得られるものは確かにあるだろう(個人的に、これを経てこそ独創性を得られると思っている)。だがそれは知識を学んだ基盤の上であってもいいはずだ。科学や経済、物事の道理を理解するために古代ギリシアの哲学や中国の古典が散々議論し尽くしてきた、知の体系を持たない状態からの試行錯誤を行う必要があるのか。それらはより深く理解するための助けにはなるだろう(おそらく哲学的な思索とはそういうものだ)。だがその段階で躓いていて、肝心の眼前の問題に言及できないのであれば、思い切ってゼロからではなく、ある程度の体系から学んだ方が早い場合もある。宇宙の仕組みを理解するために、古代文明占星術から望遠鏡の発明、近現代の目覚ましい物理学の発見、ロケットの開発等、それらをすべて一人の手でやろうとする必要はない(明らかに自分にはできない)。単純に大学に行って専門知識を習得すればいい。

ごく当たり前のことを言っているようだが、この認識は重要だ。自分であれこれ悩むよりもよく知っている人に聞いたり、知の体系にアクセスして模倣したほうが一層解決が早まる。もちろんこれが万能であるとは言わない。いずれ誰も及ばない領域を前に対処を迫られる場面に遭遇するだろう。ならばそのときはじめて自分の思索を発揮すればいい。だが今はとにかく、自分の頭でなく過去の蓄積から吸収することを優先すべきだ。知識ゼロの状態での思索は時として有用だが、古典時代の追随に終わるだろう。そういう面白さに自分は突き動かされてきたが、今は控えめにする。学ばないことの限界をこの数年で痛いほど思い知った。