人生

やっていきましょう

292日目

以前触れたことで繰り返しになるが、ある専門的な見地に基づいてくだされた判断でない限り、自分の考えというものは概ね思いつきの印象に左右されているということを強く感じる。だがこうしたことを騒ぎ立てて、専門家の考えがすべてであるとか、専門知識のない人間は何をやってもダメだという批判がしたいのではない。自分の考えがいかにあやふやで、効果的でないかということが言いたいのだ。

ここに記録している一連の考えは、すべて何か有益であるという確たる根拠をもって記されたものではない。自分はその時こう思った、ということでしかない。高校の頃、こうした記録を自分は価値のある重要な考察だと思い込んでいた。自分にとって最も利するもののひとつだと思っていた。だが自分の考えが有効であるとする根拠がどこにもないということを認めてしまってからは、ではいったい自分が記録しているこれは何だ、何の意味があるのかという思いに支配されている。

これは深刻だ。大半の人間が持っているであろう「なんとなく自分は正しい気がする」という信頼の心を失ってしまったからだ。むしろ何となく自分は間違っている気がする、と思うようになった。そしてそれは大抵の場合で妥当な結論となる。

何が正しいかは分からない。何が正しいかは人それぞれとよく言われる。だがその言葉を発している当事者、あるいはそれを耳にしている人間にとって、まさにその対象が自分自身なのだと気づくことは難しい。どこか対岸の火事、心地のいい格言のように見てしまう。あるいは自分自身の価値観は絶対に疑わないが、他の人の価値観はそのように捉えて然るべきだとでも思っているのか。

自分は「価値観は人それぞれ」を底なしの絶望であると解釈した。自分が信じている価値観ですらも、誰かにとっては取るに足らない価値でしかないのだ。こんなことは当たり前のことだが、自分の人生の苦悩を心の奥底では価値づけしたいと思っている自分にとって、結局はそれも、つまらない人生のひとつのケースでしかないということを認めざるを得なくなるのはかなりの苦痛だ。しかしどんなに目を背けたくても、相対主義は十分な説得力をもって自分を取るに足らない人間であると暴き出す。

価値の相対主義から逃れえないことを認めた上で、何かを選択しなければならない。ひとつひとつの選択が、自分の行く末を左右するが、どれが答えかは分からない。結局分からないから思考を放棄し、易きに流れるのが常だ。それも自分を嫌悪に走らせる。

事実を言えば、この思考この考えはまったく価値を持たない。分からないことを分からないままとりあえず記録した、ということにすぎない。対外的に向けたメッセージでもないから、事実確認がどうしても疎かになる。ますます自分の考えが何なのか分からなくなってくる。

多くの人が自分の考えを自明のものとして享受する。起源について知らなくても、元からそうだったというだけで信頼に足る。自分にはそれがない。かつてはそれがあった。今は失われた。