人生

やっていきましょう

293日目

何か理解するということがどういうことなのかまったく分からなくなっている。分かった気になるということは容易に実感できる。しかし分かるとはどういうことなのか。

こうした不毛な考えをする前に一つの前提を確認しておく。つまり分かろうが分かるまいが世界は動き続け、問答無用に時間は過ぎる。そして自分は確たる保証を持ちえぬまま分かった気になることでしか、現時点で分かるということを思い描けない。とするならば、自分が何かを分かったことに対する保証を確認する術はどこにもないのだから、いちいち頭を抱えたところで不毛でしかない。諦めてその事実を受け入れる他ない。

自分は分かるということが分からないことに不安になっている。この不安を掘り下げれば、自分は「何かを分かるとはどういうことか」ということを説明づける絶対不変の定義に自らを照らしたがっており、その態度を再現することで自分は何かが分かると公に示して良いのだ、という確信を得たいと思っているらしい。要するに自分の目指す方向が、目指すべき方向であるという安心を抱きたがっているのだ。

これは自分が生来抱えてきた精神不安の根源であるようだ。何が正しく間違っているかが分からない、自分自身のことは自分自身が一番分かっているとは決して言えない、どの選択が妥当で、どの選択が不適かどうして分かるといえるのか。そんなものはどこまでいっても分からない。だから不安になる。

現実は自分の願望が思い描く通りにはいかない。絶対不変の答えなどない。その時々の状況や状態によって何が妥当であるかは変わる。すべての選択はいくらかの選択よりも比較的マシであるというようにしか判断できない。その比較的マシな選択を一歩一歩選んでいく他にない。

事態は相対的である。とするならば、より多くのことを学び、それらをより多く検討するほかない。そして自分が方向性を強化したいのか弱めたいのか、広げたいのか狭めたいのかを見定め、そのために学んだことを有効活用する必要がある。

学んだところで所詮は無駄だと自分は思いたがっている。だが何かを分かろうとして多くを学んだ人間と、何も分からないから分かろうとすることを諦めた人間とでは、理解の度合いは大きく異なってくる。判断を放棄したとしても自分の理解は変わらない。結局は手持ちの情報で戦っていかなければならない。

これらのことを理解というならば、自分の望みと向き合い、検討の労を怠らず、日々研鑽していくことが自らの課題となるだろう。だがその障壁となる自らの根本的な不安をどう対処すれば良いのか。自分は何かを理解することを求めているというよりも、自分が理解しているという安心を欲している。分かっているかどうかというのは二の次で、要は理解によって安心したいのだ。

自分を宥め安心させる試みは、理解を遠ざけるものであるように思う。自分は間違っているかもしれないという可能性を極力排除し、自分が見えていないものについては目を瞑り、とにかく自分はこれで良いと思えることを妄信することに他ならないからだ(これも言及が不適切かもしれない。幾分ネガティブな解釈に偏り過ぎている。中立的に言えば変化し修正させようと努力するよりも、維持しその場に留まり続けようとすることを指すのかもしれない)。

自分は理解によって安心したいと考えている。だがこれ自体矛盾を抱えている。理解を求め続けていたら永遠に安心はこない。納得とは過程での判断停止に他ならない。より良い理解とは答えの無い答えを求めて彷徨い続けることでしか得られない。場合によっては今まで持っていた自分の考えを切り捨てることも求められる。かといって安心を求めていたらよりよい理解にはたどり着けない。ある固定化された観念に導かれるまま、それをただ諳んじることしかできなくなる。

この矛盾に耐えきれなくなるときがある。理解などどうでもよいから、安易に納得できるものになだれ込みたいという思いが突然起こる。どうにもあらがえない。自分が生きていて「良い」という価値判断が、何ものにも超越して確実に保証されるということが、自分の身に起きてほしい。しかしそれはあり得ない。自分が知的に誠実であろうとすればするほど、自分という人間が生きてて「良い」などという道理はどこにもないということから目を背けられなくなる。

では自分は安心できないのだろうか。このまま不安を抱きながら、進み続けるほかないのだろうか。おそらくそうだろう。安心は得られない。

ただできるだけ不安を抱かせないようにする方法は存在する。それをひとつひとつ自分に与えるのはどうだろうか。たとえば自分は運動すれば精神が安定するという考えを自らに根付かせた。論文やデータを参照したわけではないが、それほど外れているとも思えない。自分の経験からいっても、以前にくらべて精神が乱れることがなくなった。同様に自分の価値観をとりあえずは受け入れるという態度を身に着けた。たとえば自分はゲームを趣味としている。その趣味が何の意味もないことは認めているが、それをすることで自分の不安は軽減されている。またゲームに基づいたコミュニケーションも自分の不安を和らげる契機になっている。

これらは「絶対」ではないし、常に安心を与えてくれるわけではない。だがこれらがあるのと無いとでは、自分の精神状態は大きく異なっていただろう。これらの安心の種を自分に生かすことで、自分の身は守られる。このような自分に利する存在を身近に置き、自己肯定感を養うことは重要だと思う。そこに埋没しすぎることは許されないだろうが、一時的にとどまることは自分に余裕を生み、前進する動機となる。