人生

やっていきましょう

344日目

自分が生きていて良いとは思えなくなったので作業を中断した。どうにか自分を誤魔化そうとしたが無駄だった。仕方がないので記録をつけてやりすごす。

今日で25歳になった。25といえば普通はもう立派な社会人で世間的には自分の金での融通が利き始め、親に楽をさせてあげたいという思いが成就し、家を持ち、結婚も視野に入れる頃ではないのか。そこまで言わずとも、どこか地に足のついた安定した社会生活を送っているはずではないのか。

そうした社会的に歓迎される人生を自分は今まで送ることができず、おそらくこれからも送ることはできないということに無念を感じる。自分が最低限、社会関係を持って人として生きられていた頃の最期の方では、どうにか自分は社会の側の人間でありたいと泣いて縋るほどの思いを抱えていたが、ついにその望みは果たされず、それまでの人生が証明してきたように、自分は人と関われずに孤立し、人間に対する漠然とした恐怖を克服できず、自分が生きていることの正しさを証明できず、定職にも就かず、何かに挑戦しても長続きせず、狭い部屋の中で失意にうずもれている。

そうした自分に不利な事実が山ほど存在するにもかかわらず、自分はそれら一切の問題と向き合うことはせず、自分のメンタルが崩壊したという事実を不可逆なものと位置づけ、だから自分は何も挑戦しなくていい、安全圏でファイティングポーズだけを取っていればいいのだと無意識に思い込もうとしている。そうして積み上げた山のような言い訳の数々を偉そうに自分の人生の記録と銘打って、さも自分は何かを頑張っているかのように振舞って1日が終わる。

だが時間は非情であり、気休め程度の言い訳に費やした今日という1日は、もう二度と戻ってくることはない。自嘲に費やした1日も、憎しみに費やした1日も、努力に費やした1日も同じ1日だ。

努力を信じたいという思いは自分の中にもある。だが自分は、もはや努力と成長に対して一切の希望を持つことができない。今まで散々失敗し続けてきて、もはや努力が不可能であるという無力感、あるいは心折れなかった人間達の恵まれた遺伝や環境に対する嫉妬心を必死で抑え殺そうとしているからかもしれない。だが最も大きいのは、何かを得たところで「それが何になる」という素朴な疑問だ。これが決定的だった。無力感からの「それが何になる」でもなく、いわゆる酸っぱいブドウからの「それが何になる」でもなく、ただ純粋に「それが何になる」のか本当に分からなくなってしまった。

今の自分の心の中は「それが何になる」のか分からない、という不安で満たされている。努力や成長は一定の試行錯誤を経ていけば身につくものが多いということは理解しているが、肝心の「それが何になる」のかを語ってはくれない。虚構のビジョンに唆されてうまく誑かされているという事実だけが目について、そこにイメージされる感動や高揚が自明のものとは思えなくなっている。

決して冷笑的な態度ではない。本当に「それが何になる」のか分からず恐怖に震えている。そして最も恐ろしいのは、そのことを痛切に感じて苦しんでいるのがほとんど自分だけで、世間を見れば何かを頑張ること、楽しむこと、あるいは生きることそれ自体を素直に受け入れており、それらに対して適切な反応、適切な感情表現を返している人間ばかりだということだ。それはあたかもテレビドラマの俳優が台本を読んで役を演じているように映り、それが本物なのか偽物なのか自分には判別がつかなくなっている。

自分はこれからどうなっていくのかが分からない。本当に気が狂ってしまうのか。そうなる前に自分を生かす道を見つけられるのか。自分には何もわからない。何も分からないということが苦しい。多くの人たちのように、自明を自明として受け入れて当然のように生きていきたい。なぜ自分にはそれができないのか分からない。

ただ必然の結果として、時間だけが流れていく。