人生

やっていきましょう

829日目

自明であると自分では気づけないほどに自明であるものがいくつかある。例えば自分の考えが最たるもので、自分の考えていることは大抵頭の中で頻繁に遭遇しているものであるとか、普段何気なく意識の中をすり抜けて行くものばかりである。

こうしたものに対して特に気にも留めない状態を自分は自明と呼んでいるが、おそらくほとんどの人はこの自明の中にあるということに言われるまで気づかないだろう。たとえ気づいたとしても、なるほどそういう見方もあると思って再びもとの自明の中に戻って行く。

自分はかつて極度にストレスを抱えていた時期にこの自明なるものを失っていた。すべてが自明でないという感覚が斬新で、しかしすべてが奇怪に映るという状態だった。自分の考えること、書いていること、見慣れた光景、日ごろの習慣、自身の好み、意欲といったありとあらゆるものが、随分と慣れ親しんだものでありながら全く自分と関わりのないものに思えた。

自分に親しみがあるというそこにあるはずの確信が、なぜかそこには無いといった感覚だった。その時自分は自らの中に安定が存在しない恐怖に脅かされ、どうしたら良いか分からなかった。そうした状況の中で自らの内に自明なるものを築き上げようと決意してこのブログを立ち上げたのを覚えている。

今自分は明らかに自明の内側に戻っている。正確に言えばここ1年半はあらゆるものが自明であった。自分からストレスを極力排除することを努め、自分が良いと思えるものだけを取り入れてきた。その間、生活リズムを整え健康的な生活に戻し、とにかく自分を安静にしてきた。それでようやくどうでもいいものがどうでもいいと思えるようになり、自分の関心のために生きることを認められるようになってきた。

しかし最近になって、それも一時のまやかしではないかと思うようになってはきている。ふと我に返るとき、自分は自分を誤魔化していることに気づいてしまう。自明の外側を見たという記憶が、あるいは生来の自分自身に対する不信感が、自らの自明に対する信頼感を失わせる。どれほど自分を誤魔化しても結局自分には自明の内側で生きる資格はないのだと思うと苦しくなる。

ただ以前と異なるのは、自らの実存的危機を適度に忘却する術を身に着けたということだ。以前であれば自分は自明の外側に放り出されどうすることもできない絶望でパニック状態にあったが、今は自分の認識を意図的に制御し、よりストレスのかからない方向に意識を向けることができるようになった。

例えばメンタルが不安定になったら即座に作業をやめて運動する、ゲームをする、別のことを考える、といったことを反射的に行えるようになった。もちろんそれにとり憑かれているというわけではなく、そうすることで意識が安定するからそうする、ということを自ら判断して行えるようになってきている。

その結果、ある種以前よりも自分は虚無的な人間になっている。自分の心を機械的な判断で上書きし自由な解釈の入り込む余地を入れず、こうした努力の延長に自明に対する信頼感を偽装している、と自覚する。

以前は自己憐憫に浸ることができていた。今ではそれすらも他人事のように感じる。判断で埋め尽くされた自己は、人間というより機械に近い。