人生

やっていきましょう

361日目

自分が人とうまく関われない原因として、情報の伝達にこだわりすぎているという点がある。他人に自分の言葉が分かってもらえないとき、自分の情報に不備があるのではないかと考えて余計に情報を膨らませる。それが結局、多くを語らなければならないという強迫観念に繋がり、当然すべてを一度に制御しきれないので失敗する。

自分は認めたくないだろうが、人間関係において情報の伝達というものはそれほど重要ではない。大事な部分ではあるが、自分が神経をすり減らして考えるほどには重要ではない。何が重要かというと、相手を意識したサインを表現することだった。

自分が相手の意見に対して理解を示すとき、自分は「なるほど」という情報を相手に表明しさえすればいいと思っていた。だが実際は「なるほど」という情報を含意した表情や声のトーン、相手の方を見て頷くなどのボディーランゲージが重要だった。そういった演出を伴って初めて自分の「なるほど」が自分のことのように相手に伝わるらしい。

確かに自分が相手にむかってただ無表情で単調に「なるほど」といったとしたら、不信感を抱かれても無理はない。感情豊かな人であれば、この態度を見て「自分に不満を抱いているのか」「自分の話に興味がないのか」「なんて不遜な態度だ」などと思うかもしれない。

これは論理的であれば済むという話ではない。突き詰めれば、相手に対して安心を与える態度、与えようとする意志が欠落しているのだ。実際、ここまでしなければ相手と自分の感覚を共有することはできないのだろう。

相手の感情のサインを受けて自分の感情をサインを出すという交流に、自分は意味を見いだせていない。おそらく自分は以前それを求めていたが、歪んだ認識をもって感情交流がうまくいかないことを理由に諦めた。相手に安心を与えるサインを出すという動機も、自分のサインの出し方が下手で受け入れてもらえなかったことから、求めるのをやめてしまったのだろう。

だが世間は、この相手を意識したサインの交流を自明のものとして受け入れている。自分からすればこれらは仮面をかぶった演技でしかないのだが、そう思うのは自分が相手を意識した感情的交流を今までしてこなかったからだろう。サインの交流の渦中にある人たちからすればそれがリアルであって、仮面の演技などとは思わない。

どっちが正しいということでもない。感情の交流が支配的な場に自分が適応できないだけである。自分は本当に感情を共有し表現することが苦手だ。だから無理に感情を出す必要はない。ただあまりにも相手の感情を無視しすぎると、社会関係を築くことができず一人よがりになる。難しいところだが、今後は自分の情報伝達に相手が安心できるサイン、相手の納得させるサインというものを加えることを意識したい。