人生

やっていきましょう

860日目

自己肯定感の高い人間が苦手で、自分の価値観や考えに対してそこまで過信できるのは異常とさえ思ってしまうが、しかし一方で相手からしても自分に対してそこまで卑下するのは異常と見ているだろうと考えれば、自分の偏りも彼らの偏りもそこまで異常なものではないような気がしてきた。

忘れがちになるが、自分の劣等感や自己嫌悪は全人類が当然陥るべき帰結ではないのである。自分の実力に見合わない無理な目標設定と、実際にはその目標まで実力が到底至らないという現実との齟齬に苦しんでいるという「一例」にすぎない。当然そうならない人生もあっただろうし、現に自己嫌悪からある程度解放されている知り合いが何人かいるということがその証左になるだろうが、自分は彼らとは対極の道を歩んでしまった。ただそれだけのことである。

自分の人生は無能であることのコンプレックスをどうにか克服しようとするためだけにあった。それは自分自身からすれば特異な人生だっただろうが、能力主義と競争社会の荒波に飲まれて尊厳を失った落伍者と考えれば、よくあることなのかもしれないと思った。

しかし誰かが言っていたが、自分の境遇が何らか典型例であることを否定すべきではないのである。典型であるということは当然同じような境遇に陥った人間がおり、そこから何からの対処法が見出されている可能性が高いということが考えられるためだ。

自分もそう思う。個々の人生は特殊だが、その大部分は何らかの類型に嵌るところがある。そこに焦点を合わせて既存の対処を参考にすれば、完治とは言わないまでも寛解することはできる。自分の場合は劣等感が問題だが、劣等感を和らげる術も当然ある。

ひとつの策として、他人と比較せずに済むものを前向きに取り組むことが良いと思う。自分の経験からして、ゲームを作っている間は(事後に自己嫌悪を持つこともあるが少なくともその瞬間は)劣等感を持つことがなくなっている。

だが一方で小説や絵を描こうとしたときは劣等感が酷かった。この違いは何かと考えたが、おそらく人に公開して評価を得ることを期待していたかどうかだった。

ゲーム制作の場合、はじめは評価と承認のためにはじめたものかもしれないが、6年も経つとライフワークのような位置付けに変わり、評価のためではなく自分の人生のひとつのけじめをつけるために作り続けている節がある。そのため劣等感を抱く余地がないのだろう。

またapexはランクマッチのRPが盛れないときに激しい劣等感と自己嫌悪に陥る。しかし勝つことを一旦諦め、負けを前提として試合の中で戦い方の試行錯誤をしている間は劣等感を抱かなかった。この違いは目先の結果に左右されていて、自分の課題を自ら発見できていないかどうかだと思う。

いずれの場合にも言えることだが、劣等感が生じるのは他人に振り回されているということの証でもある。自分は自分の実力以上に何かをすることはできないと認めること、すなわち自分は劣等であっても良いと受け入れること、しかしそこから自分で課題を発見して自分が可能な範囲で前進しようとすること、そこに劣等感を和らげるヒントがあるように思う。