人生

やっていきましょう

422日目

自分の行動の軸が明確でないために、何を優先すべきか決められないでいる。

自分の軸を確立することがこれまでの目的だったと思うが、1年数ヶ月経った今でもそれは確立できていない。自分が一時的に抱いた肯定感は、すぐに自分の手によって価値のないものにされてしまう。

今日は外を走った。走っている間は自分らしい選択に満足していた。終わった後にそれが本当に自分のものだったのか疑念が湧く。あるいはそんなことをしても金にならない、賢くならない、承認されないということに落胆する。だが金持ちになることや賢くなること、誰かに承認されることが本当に求めていた理想な状態かといわれればそうでもなく、要するに金がない賢くない承認されないという3点が自分のコンプレックスの核だということだ。

劣等感を動機に生きてきた自分にとって、やりたいことといえばやはり劣等感の消化でしかない。マイナスをゼロに戻す作業だ。自分は認めたくないだろうが、そういう生き方が自分らしい生き方だったので、劣等感で悔しいから嫌なことを取り組み続けるというのは自分の中では至極真っ当な感じを受ける。自分は本来そういう人生を送るはずだった。だが劣等感の消化に人生を費やすことに1年前から限界を感じており、自分の率直な感情に反抗し続けている。

とはいえ劣等感という軸を捨てて新たに軸を構築することは難しい。「ない」ものを「ある」と言わなければならないような感覚だ。本当に劣等感の克服以外に生きる希望を見いだせない。すべての劣等感が解消されてようやく人生が始まる。心のどこかでは本気でそう思っている。

自分がこうした劣等感に支配された人間だと告白することは大変都合が悪い。自分がそこまで俗悪的な人間であるとは認めたくないからだ。他人に対して常に劣等感を抱いており、警戒と敵意をもっていると思われたくない。しかし事実を言えば、どれも本当のことだ。自分はどこまでも俗悪な劣等感に支配されている。

自分の劣等感に支配されている現状は誰かにとっての劣等感の対象であり、また自分よりも劣っている人間はいくらでもいるという事実は慰めにはならない。それらは余りにも安易に劣等感を取り除く方法であることには間違いない。だがその先の未来が予見できているので、まったく自分の救いにはならない。人を見下した態度、下を見て安心する態度は向上心にとって毒でしかない。向上心を腐らせ自らの自明性に疑念を抱かなくなったときのことを考えるとぞっとする。

こうした危機感を抱きやすいのは自分にその性質があるからだ。劣等感は、裏を返せば自分の優位を確立したいという底なしの欲求に基づいている。優位を確立したいということは、自分が敗者ではなく勝者でありたいと望んでいるということだ。自分の偽善には本当にあきれる。明らかに自分は負けず嫌いの側の人間だ。

劣等感が不動の軸になっている。自分が劣等であるという避けられない事実と、それでも前進したいという思いが交錯して精神が不安定になっている。だがその不安定が自分らしさとしか言いようがない。自分はそういう人間ではありたくないと本気で思っている。しかし事実はそうであるということを自分は見逃さない。このギャップが劣等感を増長させる。だがそれが自分だとしか言いようがない。

この問題はいつも必ず堂々巡りになる。だから一旦話を切り上げる。後天的であれ、自分が劣等感を抱きやすい人間になったということは変えられない。また劣等感ゆえに自分の人生のあらゆる要素が不満で埋め尽くされ、心がまったく満たされないという状況も変えられない。全方位に渡る劣等感が自分の進みたいと思う方向性を極力潰し、いずれの道も選択できない状況にあるということも変えられない。自分に変えられるのは行動と習慣以外にない。