人生

やっていきましょう

447日目

関心の無いものを無理矢理あるものにする。劣等感を好奇心と思い込む。自分を偽る。偽物の体裁だけが残り、本心は消えて無くなる。

自分は未だに劣等感の克服以外の動機を持つことができない。世間に対して劣っている自分をどうにも受け入れられない。自分が好きなものではなく、自分の嫌いなものを近くに置いて克服する。かつての勉強や英語、運動や端的な言葉遣いがそうであったように、自分の最も嫌いなものを克服し自分の一部とする、それ以外の動機がない。今では社会性の克服、基礎となる論理的思考力の克服、怠惰の克服を努めている。だがそうすればするほど、自分が自分でないような気がしてしまう。

気づいたら自分が本来関心のあったものが嫌いになりはじめている。自分は元々歴史が好きだったが、歴史は役に立たない、金にならない、意味がないという視点を克服できず、無駄ではないのかという疑念を拭えずにいる。絵を描くこともそうだった。本心では絵を描きたいと思っているのに、自分の劣等感から目を背けているようで後ろめたさがある。かつて関心があったものたちは、どれも実益に繋がらない現実逃避に過ぎないという理由から切り捨てられる。

それだけに留まらず、関心に従って率直に生きられている人間たちに対して嫉妬を抱いている。自分は劣等感を克服するために自分の精神を削って必死に生きているのに、彼らは素直に自分の好きなことを好きなものだと恥じらいもなく言いのける。そこに不当さを感じる。自分は自分に不都合な事実があまりに見え過ぎるので、それが言いたくても言えないのだ。

関心が想起されるたびに、今度は彼らに対する劣等感が強化される。今までと同じように、自分は自分の関心と向き合えないという劣等感を克服しようとする。だがこの克服は、これまで克服してきた劣等感のすべてを否定する。関心に率直である人間になるためには、劣等感を克服しようとした、まさにそのことの不当さを認めなければならないからだ。自分にはこれが本当に残酷に思えて何もできない。だがそうしない限り、自分の劣等感は強まる一方だ。

状況をはっきりさせたい。自分はこれまで劣等感の暴走を野放しにしてきた。またそれらを自動的に強化する環境や数々の要因もいくつか整っていた。劣等感はともかく行動の動機付けとなる。だからその結果得られたものも確かに存在する。しかし劣等感は自尊心を犠牲にする。劣等感に従えば、それだけ自尊心は削られる。言わば悪魔の取引だ。代償を払い続ければ、自尊心は無くなり、外部の人間の自尊心を犠牲にすることになる。

自分に必要なことは劣等感から距離を取ることだ。劣等感に関するすべてを否定できることは理想だ。だが自分の劣等感は自分の人格と強く結びついており、なかなか取り除くことができない。だからすべてを否定しない。距離をとり、自分の自尊心を耕す余地を増やす。

自尊心を高める必要があるが、その方針を定めることが自分にはできない。だから自尊心を高める方法ではなく、自尊心を減らさない方法を考える。まずは自分の感情、自分の意思を全く無視した判断をしない。無理をして興味がある振りをしようとしていると気づいたものからは一旦距離を取る。つぎにできるだけ露悪的にならない。自分の不利な情報を曝け出して自嘲することは避ける。そうできるのは余裕があるときだけだ。今の自分には余裕がない。また、迷いがあるときは一旦保留にする勇気を持つ。迷いに耐えきれず無理矢理行動に移して良かった試しがない。大抵は自尊心を大きく傷つける結果となる。

これらを意識して持続させる。もう少しできることがあるかもしれないが、今はこれが精一杯だ。弱っているときには弱っているときなりの戦い方がある。自分は今できることだけをする。