人生

やっていきましょう

446日目

自由な思考の機会が与えられているにもかかわらず、言及されることと言えば思考の反復であり、何度も同じ問題を掲げては同じ結論に至り、すぐに忘れ、しばらくしてからまた同じ話を繰り返す。記憶力の悪い自分が話題を直観的に選ぶ時、こうした循環に陥りやすい。これも何度も言及してきたことだ。

この記録は本来外部に向けたものではないから中身など好きにすれば良いが、さすがにこの反復は過剰であり、修正が必要な問題だろうと思う。このマンネリ感は自分が外部の情報をまるで参照せず既知の引き出しから自己完結的な思考を繰り返していることに起因している。外部の情報を参照しそれらを飲み込むための記録であれば、稚拙であれここまで同じことを繰り返す記録にはならないはずだ。

記録はこれまで多くのことを暴き出してきたが、それらのうちで最も残酷なものは、自分の思考の底が浅いという事実を明確に突きつけたということだ。自分の思考が義務教育の知識の延長でしかないということ、つまり自分の思いつきを思いつきで正当化できる範囲での知識によってでしか自分を表現できないということ。何かをよく学習している人間の持つ広い背景を自分は持たず、言葉は体感に根差した問題を語るのみだ。これも何度か言及した記憶がある。

比較は無意味だと言及したばかりだが、どうしてもこの比較は意識してしまう。探究とは名ばかりのもので、自分がしていることは思考の再現でしかない。自分の成長は5年前に止まったのだと痛感する。自分は何も学び得ず、グダグタと使い古された日々の言い訳を繰り返しているにすぎない。

自分はずるい人間で、未知の情報に対する言及をかなり意図的に避けているように思う。それは自分の無知を暴きたくない、誤解と無理解に塗れた偏見を記録に残したくないという本当につまらないプライドのせいだが、こうした尊大さと臆病によって知の範囲が限定されているという事態は問題だ。未知の情報をどんどん開拓し、誤解や無理解を修正して自分のものにするという訓練を常に行う必要がある。

新しい知識を取り入れ自分のものにするということ。どれだけ自分の理解が稚拙であっても、未知の情報から逃げないということ。このことを忘れないようにしたい。せっかく記録の場という思考の実験場、何度も失敗して良い機会が与えられているのだから、つまらない失敗を何度も繰り返したい。自分は今まで偉そうに完成された話題のみを記録しようとしてきたが、そのハードルをひとつ下げても良いかもしれない。記録は自由だという発想を今一度思い出したい。