人生

やっていきましょう

448日目

言葉の違和感について別の発見があった。自分の言葉はあまりに一意に限定しようとしすぎる。自分が意識した雑多な情報は推敲することによって削り上げ、確かに意図が通じるような工夫がされている。しかし会話文においては一意であるという点にある種の過剰さを感じる。知人に「文章が教科書的だ」と指摘されたのは決して偶然ではない。人間が本来持つ一意に限定されない言葉の気配を自分は意図的に殺し、周りもそれを感じている。

自分は過去の経験から、情報伝達のすれ違いに過剰な恐怖と警戒を抱いているが、この態度が少数のものであると理解している。大体の人間はそれほど恐怖心を抱くこともなく、検討不十分な考えや印象に基づいて、自分の思いや感情を素朴に表現しているように思う。一意に限定されず、情報が通じているかにそれほど気を配らない、ざっくばらんな会話である。場の気配を読み取り、数少ない情報での交流ができる。阿吽の呼吸で話が通じる。

会話は、そのすべてが推敲されてから言語化されるわけではない。検討というよりは即興に近く、中身はしばしば省略され、想定される批判や反論に対していつも予防線が張られるわけではない。あまりに無防備ともいえるが、だからこそ腹を割った話ができているとも言える。端的に言えば感情交流が優先されており、情報の確かな伝達が目指されているわけではない。そこを履き違えているから自分の会話文は機械的に映る。