人生

やっていきましょう

453日目

そういえば自分が何かに選ばれたという経験がほとんど無かったことを思い出した。誰でも入れる部活やサークルを除けば、選抜を潜り抜けた経験が2度の受験と英検5級しかない(TOEICには合格という概念はない)。自分の創作が賞を得たこともなく、大勢の中から自分だけを誰かに愛されたこともなく、誰かに信頼され代表に抜擢されたこともなく、新卒採用や院試もついに選ばれることはなかった。

選ばれるための努力をしてこなかったといえばそうだが、元々自分には選ばれるということがよくわかっていなかった。受験や資格が突破できたのは合格のラインが誰から見ても明白であり、個人の努力次第で何とかなるだろうという見立てがあったからだが、人から選ばれることにその見立ては通用しない。基準が曖昧であり人によって選ぶ基準が異なる。

人から選ばれるためには「信頼」を得る必要がある。ここが受験と異なる部分だ。受験はただ点数を取れば良い。だが「信頼」を得るとなると答えが曖昧になる。自分は今まで所属する共同体に不利益にならないよう努めてきたが、どれも「信頼」を得るには至らなかった。思えばどれも目に見えず消極的だったからだと思う。

「信頼」はアピールすることで得られるらしい。自分という人間は選ばれるに足る人間だと訴える。周りの人間の信頼を得るには、周りの人間に自分が「信頼」するに足る人間であると宣伝する必要がある。

この欺瞞に対して誰も懐疑の念を抱かないのが不思議だ。宣伝の汚点はセールスポイントを誇張して、その弱点はできるだけ隠蔽することだと決まっているが、それは事実を誤魔化しているのではないかと自分は考えてしまう。自分に不都合な情報も同時に提示してこそ信頼が得られるのではないかと自分は思ってしまうが、汚点が目につく人間はその誠実さを対価にしても「信頼」されない。

確かに自分がコンビニで何かお菓子を買いたいときに、「激ウマ和牛の黒胡椒チップス、でも食品添加物たっぷり」という商品を見つけたとしても選ばないだろう。自分は激ウマで和牛で黒胡椒のイメージを消費したいのであり、事実を確認したいわけではない。

これも選ばれる形のひとつだ。事実に対する誠実さは常に「信頼」と結びつくわけではない。これが社会の難しさだ。「信頼」は検討不十分の可能性を内包する一方で、それがベストだと言い切らなければならない。

今の自分にそれはできない。大なり小なりそれができている人間が社会をやっている印象を持つ。この問題に無自覚か、自覚していてもうまく適応できているか、いずれにせよ自分にできるものではない。

もちろん「信頼」がすべて非現実的だとは思わない。何かの実績を得たということ、何かの働きかけをしたということは事実であり、それはおそらく正当に評価されるだろう。しかし突き詰めればなぜそれが信頼できるか分からない、という思考に今の自分はある。

とはいえ、現実的に考えるならばこうした「信頼」が現に社会で支配的であり、しかしそれに代わるものがまだ存在しないということにも目を向けるべきだ。この不完全な「信頼」に対して欺瞞だと答えるのは容易いが、それ以上に人の信頼を測る方法がどこにあるのか。

生きるという選択をした以上、この問題を避けて通ることはできない。だからこのことを決して誤魔化したくはないが、それでも自分を曲げてまでこの「信頼」に順応したいとも思えない。どうにかうまく付き合っていける方法はないだろうか。今の自分にはまだ分からない。