人生

やっていきましょう

340日目

自分がクイズばかりしているというのは奇妙な話で、ここ1年で始まったトレンドだ。気がつけばスマートフォンを取り出してクイズアプリを起動している始末で、その時その時の正誤勝敗に一喜一憂しては虚しくなり、気が付いたらテレビの前に座ってクイズ番組を見ている。

クイズを答えている間、それが正答にしろ誤答にしろ、自分は世界に歓迎されているという感覚に陥ることがあった。よくよく考えてみれば自分は今まで社会とのつながりをクイズに答えることによって保っていたという事実がある。文系学問を中心に、暗記偏重だった自分の学生時代の勉強はクイズそのもので、学校でほとんど誰とも関わらなかった自分にとって、答案用紙への解答は狭い学校空間の中で唯一社会との交点を持ちえた部分だった。

そういう過去があって、クイズをしていると強いノスタルジーに駆られてしまう。問題に答えようとしている姿勢がそれゆえに承認されているということが、当時の自分の死にかけた自尊感情の僅かな源だった。自分は勉強が嫌いだったが、確かにそこに自分の居場所を見出していた。

その反面、その居場所が虚構のものでしかないということを今では感じている。自分は元から社会に歓迎される正常な人間ではなく、勉強をしたところでそれは変わらない。「歓迎されている」と一方的に思っていたのは自分だけだった。勉強を頑張るということはクイズゲームで高得点を取るということ以上のことを意味しない(理数系は少し勝手が違うかもしれないが)。そこに歓迎が発生するのは、元々歓迎されている人間だけだった。

だから今自分がクイズに熱中しているのは、承認が得られるという虚像の幻影を追っているだけなのではないか、とも思ってしまう。自分が誰からも得られなかった承認を、クイズをすることで自らの過去を清算できると思っているのだろうか。そういう自分の否定したい、あまりに弱弱しい感情がちらつくと、素直にクイズを楽しめなくなってしまう。

ただ、そうした暗さが自分の中に仮にあったとしても、クイズをしている最中は純粋に楽しめている。だからあまり問題には思っていない。クイズや勉強はもはや承認を得るための手段ではなく、今ではそれ自体を楽しめる趣味にほとんど移行している。だからクイズはこれからも続けていくだろうと思う。

問題は他人からの評価によって承認欲求を満たそうとすることだ。クイズをすれば社会から存在を受け入れてもらえるから、このゲームをすればこの人と話題がつながるから、といった理由で行動すべきではない。そうした態度が自分を脆くした。

それで承認を諦めた。自分は誰からも歓迎される必要はない。自分が好ましいと思うものを自分のそばに置く。そうでないものとは距離を取る。相手もそうすればいい。ただし状況を現実的に考えることだけは忘れない。やぶれかぶれになって破壊的な人生を送る前に、その選択の結果と影響を検討する。