人生

やっていきましょう

458日目

知らない情報が多いということが、自分の判断に悪い影響を与えている。自分はいま少ない情報で多くの問題を考えようとしており、答えが出ないと分かっていながら何度も同じところで躓いている。

ある程度考え事をしていると理解という言葉には警戒しがちになり、何かが分かったなどと気安く言うことができなくなるかもしれないが、それはそれとしてある程度の理解を積み上げないことには何の判断もつかず、極端な懐疑に陥ることになる。

自分はいまこの状態だ。無差別的な懐疑によって安定した思考の基盤を失い、何も分からなくなっている。

この「分からない」という状況に没入しすぎたことで自分は正気を失っているが、そもそも自分はまず何かを知ろうとしたのか、という問題について考えなければならない。卑近な例だが、自分はテストで100点を取ることすらままならないほどに記憶と認知に重大な欠陥を抱えている。自分は「分からない」ということを極度に恐れていながら、そのための努力を一切せず、少なくともペーパーテストで成果を出すということすらできない人間だ。そのような人間が「分からない」という言葉を口にするならば、何やら小難しい哲学的な問いとして捉える以前にまずは勉強不足を疑うべきではないかと考える。

情報不足が原因で適切な対処を行うことができていないという視点は決して無視できるものではない。心当たりがいくつかある。

例えば自分の自尊心を保つことができる対象が見つからないのは、内面ばかりを追求して外の情報に目を向けてこなかったからだ。外には自分がこれまで知り得なかった情報がたくさんある。その中には自分に対して自己効力感を高めてくれそうなものもいくつかあった。だが自分はそれらを軽く見過ごして、自分の身近にあるものだけで済まそうとしている。そうしたものが他にもあるということにも気づいていない。これまで価値のある情報を得ようとしてこなかった結果だ。

自分の記録がマンネリ化しているのも、言い換えれば自分の人生の指針を安易な惰性の反復によって決めているのも、外の世界の知識を学習することを厭った結果であるように思う。いま自分が持ち合わせている情報で何でも判断し、何でも考え、何でも解決しようとするから、自分の頭の中にある反復的な定石で理路が埋め尽くされてしまっている。その結果が「分からない」に対する緩やかな諦めであり、困ってはいるけれどももはやどうしようもないというポーズをとって自分を慰めることである。そういう回路が既にできてしまっているので、今の自分を修正し学習をするという方向に手を伸ばすことができない。

とかく自分は情報を吸収しようとしない。吸収しても定着させようとしない。その結果として、自分が思考の材料にできる範囲はかなり限られている。自分の無知を誤魔化すかのように言葉は抽象的になり、どうとでも取れるような表現で、何かを言っているかのような雰囲気だけを出している。

「分からない」とは、そうした背景から紡ぎ出された言葉だということを見逃してはならない。情報の範囲を広げ情報の確実さを少しでも高めるために、学ぶことを怠ってはならないだろう。さもなければ自分は壊れたラジオのように、同じことをただ反復して口に出すことしかできなくなる。事実を恐れず言えば、今の自分は既にそうなりかけている。