人生

やっていきましょう

462日目

近頃発達障害を自称するという動きがネットで活発になっている。初めは書籍やネットの内で細々と共有されるにとどまっていたが、次第に大手メディアに取り上げられるようになり広く認知されるに至った。こうした世間の流れに触れるにあたって、自分なりに色々と考えることがあった。前にも同じことを書いたかもしれないが、せっかくなので今日はその考えをまとめておくことにする。

自分が初めて発達障害というワードに出会ったのはネットだった。おそらく高校生あたりの頃だ。元々自分は対人面に難があり、適切なコミュニケーションが取れる人間ではなかった。そのためなぜ自分は他の人と違うのだろうという思いが生まれ、次第にそれは強くなっていった。そして発達障害というワードを目にしたとき自分はこれだと確信した。以来自分は発達障害だと自認するようになる。

典型的な話だ。ここから派生して自分はアダルトチルドレンであり、ハイパーセンシティブパーソンであり、非定型発達であり、自閉症スペクトラム症であり、ASDであり、ADHDであり、場面緘黙症であり、社会不安障害であると自認するようになる。結構なことだ。このような自認によって自分の中で分からなかったものが分かるようになったと考えた。当時の感覚としては、この名前の付与によって自分が何者であるかを理解できたという感覚だった。

しかし厳密に言えば、自分はただネットでそうした名で呼ばれる名称に触れただけである。自分は医学を学んだわけでもなく心理学を心得たわけでもない。まして自分は論文など一度も読んだことがない。どこの誰が決めたのか分からない名前だけがネット上に漂い、雑な特徴とともに列挙されているだけである。自分にはその情報の裏をとる術がない。にもかかわらず自分はそれを鵜呑みにしていた。

要するに自分はその呼称が意味する定義を十分に吟味しないまま、それを正しいものと認識していたわけだ。確かにいくつかの点においては妥当性のあるものもあっただろうが、かつて自分はろくに精査もせずその名称を妄信していた。なぜそうなったのかといえば、自分は事実に対する評価以上に、そこにアイデンティティを見出したかったからだと思う。自分は自分の生きづらさを言語化して、こういう人間であると言えるものが欲しかったのだ。

発達障害がこれだけ認知された昨今においては、その傾向に対する警戒的な言論も何度か見かける。その中で筆頭に上がるのは、発達障害という概念が責任逃れをするための免罪符として扱われる可能性についてである。自分は発達障害であり、これだけのことに障害を感じているのだから、配慮を受けて当然であり、克服しようと努力することはあまりに不当である。発達障害は生きづらい。発達障害は報われにくい。だからもう何もしなくていい。そういう免罪符として扱われる可能性がある。

自分は初めそれは違うと考えていたが、最近ではそうかもしれないと考えるようになった。自分は自分の生きづらさに対して報われる何を欲しているに過ぎなかった。今までの苦労に対するトロフィーを得て、だから自分の不得手を正当化できる負の名誉を得ることに執心していたのではないか。

発達障害であると自認して救われるのは自分の心であり、現実的に何かが報われる訳ではない。なぜなら発達障害は多様であり、明確な治療法が存在しないからだ。根治もあり得ない。そもそも自分は発達障害の診断さえ受けていない。率直に言えば自認が先行し事実がなおざりにされている。だからこれは信仰に近い。

今では発達障害と自認することをほとんどやめている。発達障害「的」傾向があることは認めるものの、自分がそうであると自認する意味がないと判断してのことだ。何度も繰り返すが、発達障害と自認したところで救われるのはただ自分の心でしかない。それは不確かな神に救いを求める態度と何ら変わらない。不確かである以上、自分の懐疑は機能せずにはいられない。結局発達障害を肯定する理由が何ひとつ思いつかず、自分はその信仰を捨ててしまった。

自分の今の立場は、発達障害という負の名誉に頼らず、どのように自らの発達障害的傾向と向き合っていくべきかを考える、というものだ。そのような観点から、必要ならば医者を受診し適切な処方を得ることは妥当であるように思う。だがいまの時点では、そこまで緊急の問題ではないと判断している。

自分にできることは何が問題であるかを確かに見極めること、その問題が現時点で改善可能であるかを判断し、可能であれは即座に実行、可能でなければその緩和を検討することだ。そのような地に足のついた思考を行うことで、自分の発達障害的な傾向と向き合わなければならないと考えている。

だからそれは今まで通り生きづらさとでも呼んでおいた方が良い。その方が言い訳や免罪符としてではなく、改善を視野に入れた前向きな印象を覚える。