人生

やっていきましょう

484日目

絶望というと傷心と悲観のイメージがつきものだが、どちらかといえば自分は感情が消えた空白の状態を想起する。感情が鈍くなり、何も望まなくなる。主観的なものの見方ができなくなる。苦しい、辛いという感覚すら薄れてくる。ただ事実を確認するようになる。

こうした状態が長く続いている。自分はただ頭の中を確認することしかできない。何かを望もうと必死になっているが、それだけ何も望めないという事実が説得力を持つ。感情を労ろうにも感情が存在しないことに気づく。自分にできることは何もないからただ成り行きに任せている。

絶望に陥った人間はそのまま死にやすい。これは生きている人間を生に縛り付けている、あらゆる願望を持たなくなるからである。生に没入している状態では死を想うことなどありえないが、願望が萎えてくるともはや生きている必然性が分からなくなる。

今の自分は死にやすいということが分かっている。自分はしばしばこの空白に耐えきれなくなるときがある。自分は生から疎外されている。自分は生きることを望んでいるが、生きることへの強い動機が存在しない。

生きるということは今より未来が良くなると信じられなければできないことだと思う。そうした妄想を自分はもはや信じられないから、自分は生きていながら生きている感覚がしない。

生きる意味を失うと生は単純に絶え間ない延命の過程になる。延命の価値づけに失敗したとしても、体は自然に生きるようになっている。ひどく絶望的な状況だが、自分が死んでいるのはまだ心だけだという確認にもなる。だから今は動けるうちに動いてみると良いだろう。すべては無駄かもしれないが、多少の変化を楽しむことくらいはできる。