人生

やっていきましょう

471日目

一言でいえばアイデンティティの形成に失敗したということである。より具体的にいえば自らの内に宿る自然な願望を成就させること以上に、外部からの要請に応えることを愚直に優先し続けてきたことで、きわめて不安定な自己像が生まれ、そのまま自己が爛れ落ちている状態であるといえる。

この要請の正体とは「何者かになる」という圧力であり、それは己のありのままの自認としてのものではなく、社会的なロールにおける成就を意味していたように思う。だが多くの議論が示唆しているように、自らの願望と社会共同体の要請が合致するということは極めて稀である。自分の場合も例外ではなかった。自分が自分を否定して、社会のロールを演じようとすればするほど自らの中でその圧力はいっそう過剰となり、社会に求められる(と自分が勝手に思っている)自己像と、自らが求めている本来の自己像が分裂しはじめ、精神の安定を失った。

自分は元々、社会的なロールとして何者かになるということを考えない人間だった。将来の夢はと訊かれたとき夢などないと答えるような人間だった。基本的に雑種であり、興味のあるものは何でも自分に取り入れたいと思うような人間だったと思う。多種多様な情報や環境に身を置くことで偶然的に生まれるアイデアを楽しむのが自分だったので、何者かであると一意に限定される存在になりたいとはあまり思えなかった。

しかし小中高と経るにつれ社会的な要請が高まり、自分は何者かにならねばならないという圧力が高まった。社会は人間をステータスで評価し、これまで積み上げてきた成果で差別化する。お前は何者かということを一意に示すことが要求される。自分はそこに強い焦燥を感じていた。自分が自分であることは一意に定まらないが、定めなければ誰も自分を自分であると認めてくれない。

その過剰な焦りが今まで勉強とは疎遠だったしがない自分を大学受験へと向かわせた。運良く合格はしたが、本当にそれで自分は何かになれたのかと言われれば疑問しかない。それは本来的な動機でない歪みによって得られたものであり、異質な何かでしかない。だから今でもその大学に居たという現実感がない。何かの間違いで4年間も在籍していたのではないかと思う。

つらい言葉でいえば、自分は自分でない何かになろうとして失敗し、痛みを伴って自分の収まるところに収まったということができる。これが一般的な夢物語と異なるのは、自分の望んでいた何かではなく自分の「望んでいない何か」になろうとしたことだろう。この倒錯的な異常は自らに過度なロールへの隷従を強いた結果である。だからある意味挫折は自分を回復する良い機会になっているかもしれない。

とはいえこの一件でアイデンティティが崩壊したことは言うまでもなく、今でもその修復には困難を極めている。自分が自分でないという感覚は長く続いているが、回復の兆しがないとはいえない。意識的な努力で一時的に回復することはある。だがそれもすぐに終わってしまう。

自分は何者かになることはできず、かといって本来の自己に立ち返ることもできない。ただ違和感の過剰の冒険が自らを支配し、空白の時間が延々と流れ続ける。

 

ただ、悲劇に酔うのも大概にした方がいいとは思う。大局的に見れば、この種の失敗談はありふれたものだ。自分の限界を見極めず、無理な要請が祟って折れただけのことである。その反動で強い恐怖を抱き、社会に出る勇気が持てないというのもよく聞く話である。悲劇に浸り過ぎると悲劇の永続性を認めるようになり、そこから一歩も出られなくなる。まさしく悲劇という聖典に自らの信仰を仮託しはじめる。

だが事実をいえば、状況の改善は物語の文脈に規定されるものではなく、適切な処置によって行われるものだ。このことこそ挫折と共に自分が見出した「機能」という概念であったはずだ。困難に直面したとき「心の持ちようを変える」ばかりでなく「具体的なアクションを起こす」という方法もある。これは得られない願望や詭弁などではなく、単に行動するという選択が、いかなる限定も有さぬまま、ただそこにある、ということを意味する。

自分の中の文脈ではアクションといえば極端に虚構的な表現であったが、それは実際、現実的な効果を顕現させる手段であるという実感を自分は確かに抱いた。何もしなければ失敗するという事例が信頼できることを、身をもって理解したのである。そうした視点で自らを眺めると自分は極端に経験不足であるという実像が得られ、自らの修正すべき点が自ずと見えてくる。自分の悲劇を連ねる大長編の抒情詩は「適切な処置が行われていない」の一言で完結する。この考え方は自分にありがちな文脈依存の思考を相対化してくれる上で有用であるように思う。

行動に対する過度な信仰が世間で湧きおこり、自分もその熱にほだされているのかもしれない。アイデンティティが崩壊した今、よそに影響されやすいのは仕方がないとしても、確かに行動とはそこまで恐れるべきことでも、忌避すべきことでもないのかもしれない。自分がこれからしたほうがいいことは、自分の感情に従って自分の行動をおこなうということだ。何者かになるということはひとまず置いておき、何度でも行動し、何度でも失敗してみる。成功は望ましいが別に成功しなくてもいいかもしれない。少しずつ、色々と軽い気分でやってみる。

 

(すべての段落構成に既視感がある。以前に同様の記録を書いたかもしれない)