人生

やっていきましょう

513日目

人と話すときに話がいまいち盛り上がらないと感じるときがある。何か自分の話す内容に誤解があるのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。

最近気づいたのは、自分が積極的に自分を開示していないということだった。とにかくまずは相手の出方を窺うという態度で臨むので、相手が何か言わない以上話が進展しない。自分と関わる人間はなぜか自分と同じように受け身で会話を聞く人が多く、そういった相手には多少自分がリードをしなければならないだろう。

また相手によっては、そもそも聞く気があまりないということにも気づいた。場で会話が途絶えたとき、何か話さなければと自分は思いやすいが、そもそも相手は自分のことに集中していて、自分が会話を投げかけてきたから仕方なく答えているのかもしれないだろうということをふと考えた。だとしたら自分の心配は、相手にとっては文字通り良い迷惑だったかもしれない。

ところで会話においては、相手の関心のフックを垂らしておくという感性が必要であるということを薄々認識し始めた。自分のような会話が下手な人間は、自分の関心をどうにか相手にそのまま伝えようと力み過ぎるが、相手からすればその話題にあまり興味がないかもしれないのだ。

相手の関心を引くような話題をいくつか用意しておいて、反応が良かったものを広げていけば会話は弾んでいくだろう。だがその関心は自分の関心でもある必要がある。自分が好きでもないものを無理して相手の関心に合わせるというのは、ほとんど自分を虐待することに等しい。特別な理由がない限り、無理をして人に合わせるというのはやめておいたほうがいいだろう(自分はそのことで小学校時代にトラウマを抱いている)。同様に無理をして話題を開拓しようとすることもまた、自分を痛めつけることになるため極力避けたほうがいい。

 

これまでの人生の中で相手の顔色を窺って生きるという癖が染みついてしまっているので、対人面では常に受け身で、無感情で、話題を広げることもせず、相手の反応にただ機械的に応答するというだけになってしまっている。こうした態度を少しずつ変えていかないことには、いつまで経っても自分は対人面で不利益を被り続けるだろう。別にそうであっても構わないが、このことがきっかけで自分は心を痛め、相手に対する不信感や猜疑心を募らせ、自分に被害妄想の種を撒いてしまっているのではないか。

あらゆることに言えることだが、独りよがりな妄想というのは自らの判断不足に由来するところが大きい。真摯に向き合おうとするならば、対人面での恐怖は自分の意図が相手と食い違い続けたことで混乱し、自分が「勝手に」傷ついているというだけということがほとんどだということがわかる。

他人に対する不信感は、他人がこちらに向けた反応を受けてこちらが抱いたものにすぎない。その反応に対する観察に曲解がないとすれば、相手の反応とは事実としてまさに起こったものであるということが分かる。また相手が何らかの異常者でなければ、そのような反応が起こったことには理由がある。その理由はおそらく、こちら側の反応を受けたことによる。

自分は会話の具体的な側面を見ようとしないで、会話がうまくいかないという雑なイメージだけを表面的に理解している。そうした検討不足が自分の被害妄想を招いているのだとすれば、自分は認識の歪みを正し自ら適切な態度を作っていかなければならないだろう。このことは何度も言及していく必要がある。