人生

やっていきましょう

350日目

文章の全体的な論点を把握することが難しい。自分の興味の惹く部分的な情報に意識をとられて、その主張が一貫して何を言いたいのかを掴むことができない。これは自分の読解能力の無さからくる問題なのか、書き手が一貫した主張を行っていないのか、あるいはその両方かは分からない。いずれにせよ、論旨が掴めない文章に遭遇することが自分には多い。

情報伝達を目的とした文章にはある程度の型が存在し、その書き方に当てはめることで読みやすい文章が成立する場合がある。たとえば論旨に一貫性を持たせる、結論を先に言う、わかりやすい表現を努める、段落構成を持たせる、咄嗟に思いついた関係のない話題は省くといったことは、文章の読みやすさを高める上で有効だ。そうした型通りの文章というものは確かに存在し、無論そうしたものは気軽に読みやすい。

だがすべての文章がそうであるわけではない。別に読み手を意識しなければどう書いてもよく、一貫性のない思いつきを好き勝手に書いて何の問題もない。結論のないブログのような文章もある。また識者に向けた文章ならば、敢えて簡易な表現を使う必要もない。

問題はそうした文章を読み手はどう受け止めるべきかということだ。部分的には分かるけれども、どこかで理解に躓いて全体が把握できなくなっている。こうした文章を自分はどう読んだらいいだろう。

読めない文章という問題には2つの系統がある。ひとつは語彙の理解で躓く文章だ。一般向けであっても多少専門的な文章になると論理が一貫していても自分には読めなくなることが結構ある。読めない部分を無視して読み飛ばしていると最後まで来たときに全体の論旨が把握できないで終わってしまう場合がある。もうひとつは前提を語らない文章だ。語彙は平易でも、著者が前提を語らない文章というのは理解が難しい。書かれている文章だけでは内容が完結していないからだ。

自分がここで問題にしたいのは後者の文章だ。今自分が読んでいる文章が、前後を踏まえた内容なのか、何らかの飛躍がそこにあって、その前提を抜きにしては理解が容易ではない文章なのかが分からない。この苦痛は前後の文章を単体にして読む限りでは双方とも理解できる場合に度々生じる。何度も読んでいるうちに意味のつながりが取れたときは目から鱗だが、何度読んでもつながりが理解できないと息が苦しくなる。こう書いたのは書き手の責任だと言いたくもなるが、書き手は自分を想定して書いたわけではないと思うと何も言い返せない。

例えば次のような文章だ。Aという現象・事実・報告が存在する。これをBという考え方・仮説・信念に照らし合わせると、Cという解釈ができるのではないだろうか。といったような内容だ。

Aという事実を、Bと解釈すると、Cと連想できるという文章を自分が理解できない場合が多い。印象で見るという前提に立てば、何となくそれっぽいイメージを連想することはできるが、はたして本当にそうかと考えると少し迷ってしまう。創作で上記のような連想に遭遇すると自分は何度も読み返してしまう。

自分はどこかイメージの連想で捉えることに抵抗があるようだが、これまで自分はそうした思考法を続けてきたのだし、イメージの連想に身を任せるやり方はよくわかっていたはずだ。

だが最近ではそうした自分勝手なイメージをどこか恐れ、事実として語ってよい最低限の基準に沿った意見のみを表明している。先に述べた通り、Xという文章を書いた人間がAという事実に対して、Bという解釈を材料に、Cという解釈を連想した、という点までしか接近できない。そこまでしか近づけない。それ以上の事は語りえないし理解もできない。

結局自分は、部分的な理解で保留することにしている。とりあえずこの部分だけわかった(気になっている)というだけで、分からない部分は無視している。だがそれで良いとも思えない。どこか不満が残る。

読み手として深い絶望を感じる。自分はそうした文章とどう向き合ったらいいのか。今まで通り分かる部分だけ理解し、分からない部分は無視すべきなのか。あるいはもっと昔のように、連想されるイメージに対して、自分もイメージを勝手に連想させて寄り添ったらいいのか。

結論が出ない。自分に今できることは、この分からないということに対して安易な解答を求めない忍耐力をつけることと、自分の語彙力の不足を補うくらいだ。そして相手を理解しようとすること。

ただそこに何時間も取られるくらいなら、一旦保留にして切り捨てる判断も身に着けたほうがいいかもしれない。文書を読むことに自分は時間をかけすぎた。