人生

やっていきましょう

528日目

はっきりした台詞を書こうとする際に、いずれも論理的に筋の通ったものにしようと考えてしまう。だが台詞の一貫性とは、何も論理的な根拠のみに与えられるものではない。創作においてはそれが信仰であっても、感情であってもよいはずである。例えばある戦士にとって「難しいことはよくわからないがとにかく敵をぶっ倒す」という信念が固ければ、その是非はともかく、台詞ははっきりしたものになる。

論理に忠実たれという信念は学者や指導者には当てはまるかもしれないが、そうでない一貫性を持つ者もいる。しかし彼らをどのように演出できるだろうか。例えば愛のために生き、愛のために死ぬという人間を描こうとしても、自分は彼の一貫性を表面的にしか描くことができない。自分はそう思っていないからだ。同様に戦うだけの戦士の信念や、美しいものを何よりも愛する芸術家の信念も自分には描くことができない。

ところで自分は「はっきりしたもの」を描くことができるのか。そもそも、一貫性というものを体感として理解できているのか。自分自身はっきりしない考えを持ったはっきりしない人間であるという自覚があり、はっきりしたものが何であるかよくわかっていない。自分が頑張ってようやく把握できる一貫した信念は、ただ論理的であるものだけであり、ある感情や信仰によって裏打ちされている信念というものを理解する想像力が自分にはない。

考えれば考えるほど、一貫したもの、はっきりしたものが何なのかが分からなくなってくる。これは自分の頭がおかしいのか。セリフとして、どういった言葉を書けば腑に落ちるようになるのか。どうすれば自分の言葉は一貫したものになるのか。考えるだけ頭が混乱してくる。

今日は昨日の台詞を1日中考えていた。しかし何をどうすればいいか分からず、その台詞が何を意味しているのかもよく分からなかった。どこかがまとまっているようでまとまっていない。何かを訴えているようで訴えていない。意味があるようで意味がない。見ていて気分が悪くなった。