人生

やっていきましょう

530日目

この数日間、ひとつの場面からほとんど開発が前進しなかった。当初想定していたストーリーがあまりに冗長で、一度省いて新たに付け足すということを繰り返していたから、このような状態になった。同じ過ちを何度繰り返すのか。

1つの場面に数日間かけ続けてきたことで全体としては大きく改良されたものの、いまだ多くの違和感が残っている。ゲームの流れとしては冗長な部分を全て取り除いて次の場面に飛ばした方が良いのだが、これまでの背景を網羅した作りにするためにはこのまわりくどさを避けては通れない。

自分はこの場面で3つのグループによる三すくみの関係を演出しようとした。最終的には1つのグループの理念に触発されてひとつにまとまるという設定になっているが、全体をまとめるグループの台詞が、酷く冗長になっている。

これはなぜかというと、理念を掲げる1つのグループに対し、他方はその理念の細かい部分に対してネチネチと批判してくるからだ。理念を掲げる側は批判をする側に対して正しく説明する必要があり、それが相手の更なる批判を呼ぶという形になっている。しかしどのグループもブチギレて議論を投げだそうとせず、最後まで辛抱強く議論に付き合っている。こうしたやり取りが延々と続くので、結局は回りくどくなる。

これは自分の頭の中でひとつの考え方に対する批判を想定する際の思路と同様である。自分はこうだと思った。でもこういう批判もあり得る。それはこうだ。だがそれだとこうなってしまう・・・。こうした考えを何らかの答えが出るまで自分から止めようとしない。だから永遠に思考の旅を行なってしまいがちになる。こうした考え方をそのまま登場人物に当てはめて言わせているので、ひどくまどろっこしい感じになる。

それにしても、自分はこれほど面倒な考え方をしているのかと感心したものだ。自分は何かを割り切れる人間ではないということは分かっていたが、演出として晒されることで自分の面白みの無さがありありと浮き彫りにされている。

この面倒くささの実情はおそらく次のものである。自分は対極するふたつの考え方があったときに、どちらか一方に全面的な支持を与えるのではなくどちらに対しても批判的になる。あるいは自分がどちらか一方であることが避けられない場合、他方の言い分になるべく理解を寄せようとする。こうした視点を作者である自分は多くの登場人物に無意識に強要しているので、いずれのキャラクターも物分かりがよく、話が通じやすく、対話による解決を目指そうとするという問題がある。よく言えば面倒ごとが少なく、悪く言えばご都合主義に陥りやすい。

自分の登場人物がまわりくどいのは、すべての人間が対話による解決を絶対視しようとして、ああでもないこうでもないと考えた末の結論に合意しようとしているからだ。創作としてこれほどおもしろくないものはない。そのうえ、合意の決定的な要件が主人公の雄弁な語りによるものであるとなれば、宗教説話の色が強くなり何が面白いのか分からなくなる。

面白さという点でいえば議論を投げ出した方が良く、直接的な暴力や口喧嘩、それかゲームか何かで解決したほうが面白い。とくにこれは小説や本ではなくゲームなのだから、つまらない予定調和の演出よりはプレイヤー自身の体験によって変化が生まれた方が良いに決まっている。

この点について再考の余地がある。とにかく冗長さというのはRPGゲームにとって致命的なので、極力排除する方向に修正していきたい。