人生

やっていきましょう

535日目

通常であれば人は価値の催眠状態にかかっていて、自覚するまでもなく自らの選択が自分らしいものだと感じることができるようだ。つまり自分が楽しいと思うことは楽しく、イライラさせるものはイライラさせ、悲しいと思うことは悲しい、そのような評価の真偽はさておき、そう感じる自分がまさに自分らしいものであるとして正統なものであると思うことができるらしい。

自分が今やこうすることができなくなったのは、自らの主観的な評価と客観的な評価を一致させるために、自らの主観を殺し客観そのものになろうとしていたからだ。自分の主観的な見方が社会と解離していたため、適応の必要に迫られたとき自分は自分を殺すことで社会構成員の一員になろうとしていたのだった。

別にこうした試みは珍しいものでもなく、大抵の人間が青少年期のうちに一度は経験するくらいのものだろうが、自分の場合それが極端だった。とにかく他者が関与している社会にあるうちは、自分の内側にある主観的な世界を抹消しようとしていた。しかしこれは失敗だった。自分に向けられた圧力は不安定な自我をもたらし、結局自分を精神の限界まで追い込んだ。

ともかく、本来であれば自分が自分であるという状態が常にあるはずのものが、自分が自分でないという状態が常にあるという状態に今の自分は陥っている。それがここ1.2年の間に直面してきた問題だった。自分はどのように自分に埋没できるのか、ということをひたすら考え続けてきた。だが一向に答えにたどり着くことはできなかった。

自分が自分でない感覚というのは、肉体が自分のものでないという感覚に陥っているわけでもなければ、自分の判断や知覚が自分のものでないという混乱があるわけでもない。それらはまさしく自分に対する反応として認識できており、その反応をもって自分であると言うことには同意できている。

問題は、自分が同意できるはずのいくつかの選択になぜか同意ができないということだ。あるはずの極めて平凡な確信がそこにないという感覚だ。自分が日頃感じ取っている主観的な世界は無自覚のまま客観的な文脈に翻訳され、気が付いたら自分は自分を傍観しており、主観がどこかに消えている。自分は行動の主体ではなく、背後で観察している何者かである。

自分は自分が選択したものが自分のものであると納得できていない。確かに自分の正常だと思われる判断に従い、いかなる障害や誤解をもって妨げられた訳でもなく、はっきりとした合意の上で、例えば生きるという決断をしたが、しかしその選択が、本当に自分が選んだものであるとは到底思えないのである。自分は生きるということに同意したのではなく、生きるという「虚構」を演じることに同意したにすぎない。今書き込んでいる記録は、自分がどのように虚構の中で道化を演じてきたかをまとめた報告にすぎず、誤魔化しは上手くなっても肝心の実感が得られていないという状態になる。

これをアイデンティティの拡散と呼んだり、実存的危機と呼んでも構わないが、いくらあれこれ名前をつけて言及したところで何も解決しないのだから意味がない。自分が主観体験を我が身のことのように感じることができるようになるためには、多くの自己啓発本が口うるさく言っているように、周りのことは気にせずとにかく自己に没入するしかないだろう。

換言すれば、客観的な観察という視点から主観体験を眺め自分という存在を解釈するという冷笑的態度からでなく、主観体験から自分という存在を眺め解釈するという経験を繰り返す必要がある。それによって、自らの内に主観的な文脈が育まれ、いつしかそれが実感を持つことができるようになるだろうという見込みがある。

見込みがあるというだけで、実際にそうなっているわけではない。とにかく自分は自分の体験を通じて感じたものを大事にしようとしているが、効果はあまりない。

打つ手がない。記録を初めておよそ1年半が過ぎたが、未だに混乱している。とりあえず自分の自我を回復する試みはこのまま続けていきたい。見込みのあるうちは、まだ諦めることができない。