人生

やっていきましょう

583日目

例えば自分は次のように考える。

自分は何かに対して何らかの感想を抱く。その感想は吟味不十分なものであり、また思い込みや偏見が入っていて、正しいものとは言えないかもしれない。

このとき自分は、自分の中である程度明確な根拠を持っていない。だからその考えは極力言葉にすべきでないと考える。それは結局、自分が無知の状態のまま何かを語るということに責任が持てないからだ。

しかしこの判断があまり正しいとも思えない。自分はこの点に関して神経質すぎるあまり、ほとんど大半のことを口に出すことができていない。口に出したが最後、それは自分の無知と誤解の証拠として言質を取られてしまうと考え、何も言えなくなってしまう。だが大半の人間は言葉に対してそこまで神経質ではない。自分の思ったことを自由に言い、つまらないことでも平気で口に出す。彼らを見て、自分の思い込みの強さを自覚する。

自分は自分の言葉に臆病になっている。どこまで行っても自分の考えに責任が持てるほどの言葉が出てこない。

勇気を持つためにはある程度無知に開き直る必要があるだろう。まずは不完全な自分を受容し、現状の中で言葉にできるものの中でよりベターなものを生み出せるよう心がけたほうがいいかもしれない。

それから積極的に失敗するべきだ。このブログは他人に対する責任を完全に廃し、純粋に自分のためだけに書くことを認めている。それが他人から見てどれだけつまらなく、多大な誤りを含んでいるように思えても、自分の中で無知や誤解を修正しようと試行錯誤した上での発言であれば、自分の自覚できていない無知や誤解を恐れるべきではない。

何かについて感想を抱いたとき、とりあえず自分は言葉に出してみても良いのではないか。他人に公表したり共有する自信がなければ、記録の中で練習すればいい。

無知と誤解は常に起こり得る。このことに自覚的である以上に、自分の言葉に神経質であるべきではない。また自分は、失敗と判断した問題をその都度修正するという意図を持ち続け、可能な限りにおいて実行するということ以上に、自分の言葉に責任を持つべきではない。

自分の言葉は自分の都合に寄せて発せられる。以前はそのことを否定しようとしてきたが、これからは自分の都合を振る舞うことに自信が持てるようにしたい。