人生

やっていきましょう

722日目

己の関心が内向きに閉じていくことで、その関心の外側にある、全く異質な外界から切断されることに抵抗がある。あたかもそれらが存在しないかのように視界から消え失せ、手元に残った自明の産物がそのまま自らの限界を規定し、そのことに自らが気づかない、そんなことにはなりたくないと思っている自分がいる。

これは一般的に見れば奇妙な感覚であるように思う。自らの興味に関心を持つことはあっても、自らの関心の外に関心を持つということはありえない。なぜならそれは、今はそうではないが知ったら後々関心を持ちそうだから漁っておくという類のものではなく、自らが無関心で今後も興味を持たないものであろうものに関心を持っている、持とうとしているということだからだ。

本来的な自分の関心に今後おそらく関わることのないものに常に接続していなければならないと考える歪んだ関心は、自分の関心に対する逆張り的な自虐に近いものであるように感じる。つまり、自分の関心があまりに無価値で無意味なものだから、自分は本来的な自分を貶し、本来的でないものに関心を見いだそうとしているのだ。これは本来的な自分であろうとしない、言わばアイデンティティの否定によって新たな自分に成り代わろうとする変身願望に近いもののように思う。だが自分の歪みが単なるそれとは異なるのは、変わろうと望んだ先もまた自分にとっては本来的なものではないということを自覚しているということだ。

こうした本来的な関心を否定した先の、偽りの関心を抱き続けることは実に空虚である。好む/嫌うという原始的な感覚を否定し、理性の力で自分に好ましいものはこれであると決定したものに限り、興味を向けることを許可しているからだ。

これが単なる一時的な倒錯であれば速やかに修正し本来的な自己に回帰すれば良かっただろう。しかしあまりに本来的でない自己でありすぎたために、本来的でない自己もまた本来的な自己であるという矛盾を抱えるようになってしまった。

例えば自分は英語が嫌いだったが、英語を好ましく思わねばならないと自分を歪め続けた結果、英語に関心があると思い込むようになっていた。そのことに自分は気がついているが、既にそう思い込んでいた時期があまりに長かったために、そう思い込んでいたという事実が重なり、歪んだ形ではあるが自分にとって新たな関心のひとつとして認めざるを得なくなった。これを否定することもまた自分の関心を否定することと等しくなり、いずれにせよ自分が自分であることができなくなってしまっている。

とはいえそうした自分もまた自分である。自分は自分の内側の関心が世界のすべてであると錯覚するような視野狭窄な人間にはなりたくないと考えている。それはかつて自分が自分であることを認めてもらえなかったという自己を正当化するために見出した、やむに止まれぬものだったかもしれない。だがたとえそうであり、また自分らしく生きることが人間としての本望であって自分の人生の満足に繋がるものだとしても、自分は自分であろうとして自分を否定するだろう。常に異質な外界と接続し、それらを受けた自己否定の延長に自己を見出す、これが自分である(しかしそれにも限度がある。最近では自分の歪みに疲れ本来的な自己に戻ろうとしている向きを感じる)。