人生

やっていきましょう

744日目

自分が不安に陥ったとき、不安はその人の能力では対処できない問題に直面し先が予測できなくなるときに生じるという言葉をよく思い出す。誰かが言っていた通り、不安を回避するためには不安を生じさせる問題に対処できるほどの実力を身に着けるか、自分の限界を認め対処できる問題にのみ焦点を合わせるか、問題それ自体から目を背ける必要がある。

自分がここ最近不安に陥らなくなったのは、自分の能力で対処可能な問題にのみ焦点を当ててきたからである。自分の限界を超えた努力は回避し存在しないものとして扱うことで、自分の世界観を無力な自分でも把握できるほど単純なものとして構築してきた。遠大な目標は立てず、自分の限界にも及ばない手軽にできる行動を積み重ね、そこに小さな喜びを見出す日々を送っていた。しかしこうした幻想の外側は確かに存在するのである。そこに意識が向けられた途端、抑えつけられていた不安がどっと溢れ出し制御が効かなくなる。

自分は長らく自分の実力以上の問題に対処し「なければならない」という世界観の中で生きてきた。それは自分の能力の限界を認めたくないという思いと、そうでもしなければ自分自身を肯定できないという思いによって生じた。自分に元来備わったものに満足できる要素がひとつもなく、自尊心の飢餓感ゆえにこのような逆境に追いやられた。しかしそれがかえって自尊心を損なわせることになった。

今日その不安を直視することになった。突然何をしたらいいか、何ができるかが分からなくなり、不安に陥った。しかし対処は速かった。不安の実態を客観的に捉え、少なくとも何について考えるべきかということを意識した。何について不安を抱いているかをはっきりと理解し、漠然とした不安を実体のある問題に置き換えること、そしてこれまで通り自分にできる限りのことを尽すか、不安に立ち向かう力を身につけるか、不安から目を背ける勇気を持つか、ということを自分は「選択できる」ということを意識した。

不安の解消法には都合の良い妄想を抱くといったものがある。捉えどころのない漠然とした不安にどうにか実体を与えようとして、それが誰かのせいであると考えたり、あるいは検証を挟まない独自の解釈によって勝手に納得するようなことである。不安の解消という点ではある意味妥当な選択であろうと思う。

だが自分はそのような方法で不安を解消すべきではないと考える。人生において自分自身の考えに対して常に修正的な意見を与えてくれるのは自分しかいない。勝手な決めつけ、勝手な思い込みで納得し、不安をその都度単純な感情に置き換えてきたという蓄積は、必ずその先の人生に影響を及ぼすだろう。そうなることが自明となった瞬間、不安は短絡的な結論とそれに抱く単純な感情を抱くきっかけにすぎなくなる。

自分は不安の解消を安易な納得によってではなく、それがどのように修正され得るかと考え試行錯誤していくことで解消を図りたいと考えている。たとえそれにより自分が不幸になろうとも、自己批判の精神を忘れては自分の前進はあり得ない。そう考えると、不安とは見えない壁に直面したことのサインであり、自身の安定を対価にして自身の修正の機会を得るようなものであるということが分かるだろう。