人生

やっていきましょう

1141日目

数年前のことがよく思い出せない。自明性の喪失という問題を真剣に悩んでいた(おそらく人生の中で一番考えていた)が、今ではまったく考えることがなくなった。どうしてそこまで必死になっていたのか分からなくなってしまった。

思考上の混乱に対して全力で対処しようとしていたのは、おそらく自分の中で失いたくないもの、守らねばならないと思っていた自分の中の最後の闘志を絶やさないためだった。しかし今の自分は、自分に対して何ら執着がない。気がついたらすべてを諦めていて、あらゆる機会から退いていた。

例えば自分は他人に肯定される人間になりたいと思っていた。あるいは自分の人生を切り拓いていきたいと考えていた。また自分の劣等感を克服したいと考えていた。もしくはまだ見ぬ未来に希望を持ちたいと考えていた。

そういったすべての願望が、自分の欠陥によって閉ざされて行くという感覚を自分は何度も味わった。そこで諦めず、醜く戦い続けたのが自分の人生だった。今思えば中高の頃も、大学にいた頃も、自分は他人から見ても異常者で、ニュースでよく見るような不審者だった。異常者が自らの異常性を改善しようとする光景は余計に異常だった。自分は不審者であることを憎んでいた。それでも自分は自らの自明性と多数派の暗黙の了解の不一致から、自分が不審者であるということを認めざるを得なかった。

今の自分は異常者以外の何者でもない。しかし異常者であることへの抵抗を前よりは自覚しなくなった。異常者であるからといって、自分が世間から歓迎されないからといって、何が問題なのか。他人の下す評価を烙印のように自分の心に刻み蝕む理由はあるのか。自分は他人の都合に合わせる道具なのか。

何も問題ではない。自分というひとりの異常者がただそこにいるだけである。自分は他者の理想である必要もなければ、他者にとって都合の良い人間である必要もない。自分はただ自分の都合に従って生きれば良い。他者から距離を取ってからそのことをよく自覚するようになった。

そもそも自分が異常であると困る理由は何だったのか。自分が他人から信頼されないということ、自分が他人から誤解をされるということを恐れていたからだ。

おそらく自分は自分に自信がないために、他者の評価に追随することで自分の心を守ろうとしたのだ。その他者は他者の都合で動くのであり、それが自分の長年のストレスになっていた。

しかし他者から精神的に自立している人間というのは、他人の価値判断で自分が揺さぶられることがない。他人がどう考えようと自分はこう考え、こう実行するという指針がある。こうした指針のある人間は、自分が多数派から見て異常者であろうとも気にしない。そもそも異常か正常かということに関心がなさそうである。

自分は他者から離れ、多くの他者が持つ理想に近づかなくても良いという考えに至った。それが自分の中に残っていた最後の闘争心を打ち消し、自分を腑抜けにさせてしまった。しかし他者の理想を追わされて焦りと不安の中で生きるよりも、自分が今を肯定できた方がよっぽど良い。