人生

やっていきましょう

Twitterのタイムラインを見ていると、フォロワーのきわめて個人的で何の意味もないツイートに何度も遭遇する。これの何が面白いんだと思う反面、実際つぶやきとはこうあって然るべきだとも思った。人々の日常にコンテンツ性を求めてはならない。

自分はツイートというものを外に向けて発信されるおもしろ一発芸のようなものだと誤解している。しかし素朴な表現というのは、腹減ったなーとかこいつがブスでキツいだとか、ゴシップに文句のひとつを吐き捨てるだとか、主語や目的を書かずに自分で勝手に納得している文章だとか、とにかく身勝手でつまらないものである。

明らかな事実だが、自己表現は必ずしも面白くなければならないわけではない。面白ければ有利にはなるかもしれないが、絶対に面白くなければならないわけではない。自己表現は自己表現である。しかし自分は他人のツイートに対して、そのあたりが神経質になっている。

おそらく自分は他人についてそこまで関心がないのである。他人がどこに行って何を食べ、何を遊び、何を感じたかということに、どこか疎いのである。だから他人のツイートというものが、どこか異物のように感じられる。意図が分からないまま情報が流れてくるので、不気味にすら思える。そこに不快感を覚えるというわけである。

ただ、それとは別に自分の価値観によるところの影響もあると思う。自己表現は面白くなければならない。面白さを追求しなければならない。自分の中で自己表現のハードルはあまりに高く、それが駄作であることは自分が耐えられない。耐えられないからこそ、他人の表現がその基準をあまりに下回っていること、それで満足していることが気に入らないのである。

このあたりの問題をしばらく考えていた。自分は自己表現に対して面白くなければならないと考えすぎる。だが実際のところ、世の関係は面白さに基づいて維持されているわけではない。むしろ話なんか思いついたままを話していればいいとさえ考えている人間が大勢いる。それで平然としている。面白さに対する自分の過剰だけが際立っている。

これと類似のパターンをどこかで見たことがある。整形に何千万もかけたという人の話である。その人は自分の顔面に対する劣等感から美しくなければならないと考えていた。しかし実際世の中にはブスが何百万と蔓延り平然と生きている。彼からすれば、世のブスがなぜそのまま生きていられるか不思議でならないだろう。

おそらくその人も自分も、自分がそのまま歓迎されるという経験をしたことがないのだろう。あるいは経験したとしても、自分の目が曇っていて見えていないのではないか。だから自分は面白くなければならないと考えるし、整形は美しくならなければならないと考える。

完璧主義者というのは自分が完璧主義に囚われているという自覚を客観的に持つのが難しい。自分がこうでなければならないというのは、こうでなければ自分の脆弱な自尊心を維持することが不可能になるという、切迫した感情から発せられる言葉だ。その思い込みの内にある限りは、自分の存在を冷静に俯瞰してみることはできない。

こうした妄想が維持されるひとつの原因は、他人がそう思っているに違いないと思い込むところにもあると思う。ブスが周りにブスを馬鹿にされていると勘違いするように、自分も自分のギャグセンスの無さを笑われていると勘違いするのである。

まったくのウソというわけではないだろう。確かにそのように評価を下す人間は一定数いる。しかし妄想に囚われた人間は、多くの人間の抱く評価の多様性というものを直視できていない。自分がタイムラインの日常ツイートを無意味な自己表現だと思う一方で、彼らの取り巻き連中は身近な人間のちょっとした冒険に魅力を感じ、それを受け入れる。その多様性が本来あるはずなのに、思い込みの中では排除される。

自分の場合もそうだろう。自分は自分の作品をどうしようもないゴミクズだとしか思えないが、自分がゴミクズだと思っているものでも面白いと言ってくれる人はおそらくいる。自分は彼らの目が曇っているのだと思うが、曇っているのは自分なのだ。面白さを目指して創作しているのだから、そのフックにかかる人間がでてくるのは当然の話である。

重要なのは、自分と他人は違うということを認めることだ。自分は劣等感と思い込みに支配されたクソと同義かもしれないが、他人がその評価をそのまま下すとは限らない。他人は他人の生きてきた人生から見える景色についてあれこれ言っているにすぎない。

事実と妄想を区別すべきである。自分が見ているのは他人ではない。他人がそう思うだろうと考えている自分である。自分が妄想を抱き、その妄想を他人も抱いているだろうと自分が勝手に妄想しているだけである。そういう状態からまずは脱却し、受け身の価値観ではなく自発の価値観を構築するところから始めたほうがいい。