人生

やっていきましょう

面白い作品をそのまま面白いと思えるようになったのはいつからか。面白さに対する不信感は既に自明であるとして、しかしその不信感に依存しなくなったというのが大きい。

価値の喪失という問題は自分にとってもう当たり前のことで、心から面白がっていたり、ワクワクを追求しようとしている人間に嫉妬や嫌悪を抱く必要はなくなった。自分を守ろうとして1人怯えて逆境に立っていた自分はもういない。

面白い作品を面白いと感じるのは、他人に対する敵対心や否定感情が薄れてきたからだろう。もっと言えば、他人そのものを気にしなくなったからだ。

弱い人間なら大体似たような世界観を持っているが、自分は他人に侵食されるのが苦痛だった。譲れないものがあれば戦えばいいのに、力がないから萎縮するしかない。そうした人間は他人に拒否反応を示すことで自分を守ろうとする。

しかしある時期から、自分には守るべき自分が存在しないことが分かった。自分が惨めに怯えるほどに固執するこの自分は、実際には守る価値がまったくない。というのも自分は自分を殺して他人に合わせているだけで、自分と呼べるものが何もなかったからだ。

そこで自分は、他人がどう思うかではなく自分がどう思うかを優先し始めた。未だに他人はこう思うだろうと考える癖は治らないが、それはそれとして自分はこう考えるということを自覚するようになった。

こうしていくうちに、絶対の否定によって覆われていた神秘のベールが徐々に暴かれ、自分という人間がいかにつまらなく平凡で、しかし具体的な存在であるかが分かってくる。

この具体性が肝要だった。つまり他者に対して価値上の脅威を抱いていたのは、他者という観察可能な具体存在を前にして、抽象存在である自分があまりにも無防備だったからだ。しかし自己理解を通じて自分が相手と同様、具体的な存在になればなるほど、交流は現実的なものになり、自分と他者は海路を隔てた貿易関係、同盟と対立を使い分ける帝国間の政治的、文化的交流のようなものになっていく。

ところで自分は初め、趣味の開陳という外交的な茶番が嫌いだった。日本が富士山、芸者、侍で海外にアピールするように自分が相手にシンプソンズがマジで面白いと言うと、自分の理解の浅はかさや他人に自分をアピールすることのふてぶてしさが自覚されて具合が悪くなったものだ。

別に自分の好みなど他人に分かって貰う必要はない。自分はこういう人間だと自分が分かっていればいい。それができれば自然と自分は具体的になる。そこで得た具体性が国の顔となり、それが他者と有効な関係を築くきっかけにもなり得る。

宣伝材料は実際とは異なるというのはどこもそうだが、かと言って自分のようなインターネットオタクにありがちな自身の100%の理解を共有したいという考えを他人が求めているわけではない。

社交というのは解像度の浅いトピックをやり取りすることで互いの信頼を獲得していく行為であるから、自分は平然と無知を晒し趣味を公にして良い。自分の無知、矛盾、無理解が自覚できていないことを自分は何よりも恐れているが、会話を求める他人にとってはどうでもいいことだ(それが必要な場所というのは存在するから、すべてに当てはめるのは危険だ)。