人生

やっていきましょう

APEXの4周年のイベントということで、大人数の入る施設を借りて有名ストリーマーやプロ選手、歌手や芸人を交えたビッグイベントが開催された。自分はその配信の存在を知らなかったが、たまたまyoutubeでやっていたので見ることにした。

なかなか面白いイベントだったが、自分が特に印象に残っているのは一番面白いAPEX芸人を決める催しだった。何人かの芸人がAPEXに関する芸を披露して、一番面白い芸人に100万円渡すというものだった。

率直に言って、自分が面白いと思える芸人はほとんどいなかった。しかしこのつまらなさが自分には面白かった。つまらない芸にこそ個性が宿ると自分には思えたのだ。皆の理想を体現している存在というものは大抵画一的に映る。優れた人間が成功を収め、多くの人間たちがそれらを模倣する。だからどこへ行っても皆が求めるものというのはだいたい似通っている。

翻って誰も求めない存在というのはどうか。例えば自分の顔を見てみればそうとう醜いものである。しかしこの醜さは、やはり自分固有のものであるように思う。芸人も同じである。つまらない芸人がいる。しかしそのつまらなさには固有のものがある。ある芸人は形式の後追いと模倣で笑わせようとしている。ある芸人はリズムで笑いを取ろうとして失敗している。ある芸人は内輪ノリを公衆に向けて発することの矛盾に気づいていない。それらがステージに放り出されて、審査員が愛想笑いとお世辞を言ってありがとうございましたと言う。その空気は耐えがたいものだった。しかしそのつまらなさは、確かに千差万別だった。

偉そうに書いているが、自分も面白い笑いを生み出せない芸人崩れの一人である。ステージには立たないが、セリフの中で笑いを生み出そうとして失敗している。彼らの姿が自分と重なる。しかし自分は彼らに同族嫌悪を抱いていない。むしろ驚嘆し、賛辞を送りたいくらいである。なぜならつまらない芸人は、自らのつまらない芸を抱えて自らの足でステージに立ったからである。自分の不完全さ、つまらなさを持って果敢にも勝負を仕掛けたのである。その勇気が自分にはない。

自分がもしその場にいてステージが微妙な空気に包まれたとしたら、自分は激しい自己嫌悪と後悔にさいなまれ、二度とお笑いで勝負しようとは思わないだろう。しかしステージに立っている彼らは、おそらく落ち込むことがあったとしてもそこまで思いつめることがないように見える。彼らの表彰式を見たが誰もが陽気だったし、人を笑わせることで自尊心を培ってきた人間であるように思えた。いかにつまらなくても彼らは楽しそうだ。ここで失敗しても、また次のステージを探すだろう。

自分は臆病だから、つまらない人間が壇上に上がってくるのを消費してつまらなさの驚嘆すべき多様性にひきつった笑いをもって楽しむだけである。安全圏から彼らを眺めて、自分のつまらなさに安心しているだけである。

自分が思うのは、自分のつまらなさを恐れるべきではないということだ。自分はおそらくつまらない人間で、それを否定したくて面白さを目指しているのだろう。しかしつまらなさというのは、ただちにその存在を否定されるべきものではないように思うのである。それは面白いものと同様、ある形として現れたひとつの結果である。その結果はどうあれ、人々の心に作用し、影響を与えている。