人生

やっていきましょう

864日目

ゲーム制作のことを完全に忘れていた。しかしランクマッチが一段落つくまで開発に取り組むことはないだろう。今ではapexにかける熱量の方が遥かに上回っている。

連日の不安定な環境で自分の精神もかなりまいっているが、ランクマッチの期限が1週間もないことを考えるとこちらに全力を出さずにはいられない。今はとてもダンジョンのギミックを考えられる状態ではない。

ところで今日どうにかプラチナⅡまで持ち上げることができた。その過程で何度もRPを下げ続けたが、以前のように400RPを溶かすということはなかった。単に自分の実力がついてきただけかもしれないが、それ以上に負けが込んでいるときに自暴自棄にならなくなったことが大きい。

以前書いたように、負けて36RPを溶かすという点にのみ意識を向け続けると何か自分が崩れ落ちて無限に落下していくような感覚に陥り、目の焦点が定まらなくなり、息が止まり、何か精神の行き場や安定を得ようとして怒ってみたり、他責を試みたり、かと思えばそうした自分の浅はかさを自責したり、とにかく冷静さを完全に失ってしまう。また一旦気を紛らわそうとしても失った36RPは戻ってこないのだと思うとかえって気を紛らわそうとした事実が重荷になって最後には生きているのが苦しくなる。

しかし、もう36RPは失われても良いと考え、自分がやろうとしていることができているかだけを評価するようにしていたら、それほど苦にならなくなってくる。むしろそう考えることで得た冷静さが自暴自棄になりそうな自分を制御し、個々の状況に対して消極的な勇気が湧き起こって来るのを感じる。

自分は結果にかかわらずただ状況に対して淡々とこなせば良いのだという、どこか投げやりで諦めに近い心境が、実際のところ大敗を未然に防いでいる一番の要因となっていることは注目に値する。プロスポーツプレイヤーがインタビューで似たような言葉を口にしているとき、うまい言葉が見つからないからそう言っているだけだろうと鼻で笑っていたが、彼らは本当にそう思っていたのだと今ではよく実感できる。状況が転々としてすべての情報が予測できない混乱に巻き込まれているとき、自分はただ自分にできることを淡々とこなすという宗教的な信念によって救われることがある。死ぬか生きるかの瀬戸際で、生きることへの諦めが死ぬことへの恐怖を超えたとき、根拠不明の冷静さと勇気が湧き起こり、それが怯んだ相手にトドメを指す力を与えることがある。

こういう精神論はあまり好んでいないが、自分がプレイヤーとして戦場に立つとき、精神の安定を得るのはやはりこうした信念によってである。倒されるときは当然倒されるのだが、自分がふいに戦闘に巻き込まれて何が何だか分からぬままパニックの中で受け身で戦うよりも、自分が最後まで自分にできることを努めて、状況を押し上げるつもりで戦った時の方が遥かに生存できている。

勇気とは本人の主体性に宿るということを日々実感する。それはゲームに限らず、世の中にあるあらゆるケースに対しても同様であるように思う。怯えて受動的になるとその隙を突かれて相手に選択を誘導されるがままになる。だからと言ってそのまますべての選択を拒絶するのは愚策である。それは受け身の人間が受け身のまま対抗しようとするもので、状況は変わらず不利なままである。かつての自分はそれが分かっていなかった。

誰に何と言われようと自分はこうすると自分で納得して下した決断にその人の勇気は宿る。その責任、正誤、影響といった問題は当然あるが、この勇気を持てた人間が場を有利に動かし勝利を掴むのだと思う。