人生

やっていきましょう

988日目

創作に対して、見る者の特権というものを感じる時がある。目の前にある作品は自分の解釈次第で傑作にもガラクタにもなる。その作品が「見られる為に」作られたものであれば尚更である。美術館や出展に行く機会はこれまで何度かあったが、こうした見る側の立場に自身の優位性をまったく感じていない訳ではなかった。

これほどまでに価値の有無が重要であり、縋る思いで価値を求められる時代はそう無いだろう。これは創作物が氾濫し創作そのものが差別化しにくくなった背景に加え、価値そのものを保証する存在がより不可視なものになったことの影響もあるだろうが、こうした価値氾濫の時代にあって尚、視野狭窄的に何らかの価値を妄信する熱烈な信者でもない限り、人は自らの眼前に広がる価値の不確かさに眩暈をすることになる。

ある種の作り手は、この価値の不確かさに怯えることになる。自らが表現しようとしている作品は神の賛美を目的に生み出されたものでもなく、今時珍しい確固たる信念によって生み出されるわけでもなく、純粋に、己自身これまでの人生の中で摂取し我がものとした、か細くひ弱な価値観を託して生み出されたものである。それはありきたりで、平凡で、何の面白味もないものであるかもしれない。その作品の価値の根拠はただひとつ、自身がそれを良いと思ったということだけである。

彼らは作品を通じてその半生を問われる。これまで何に価値を置いてきたのか。そしてその結晶を恐る恐る、見る側に提示する。それが受け入れられれば報われ、拒絶されれば苦しむだろう。見る側はそれをただ品定めする。どう解釈しようが彼らには失うものがない。ここに見る側の優越がある。

自分もある時期までは不確かな価値観の中で作品を作り、他者に自分の作品を品定めされるという恐怖に怯えていた。その恐怖をよく知るからこそ創作屋の集団は互いの価値を肯定し傷を舐め合うのだ。しかし数年前に現実生活での苦難が重なり自身の不安定がある閾値に達した時、自分は価値不在の虚無に落ち自他の価値観が一切どうでも良くなった。突然自分が生きている理由が無いことに気づき、自分や他人に価値を期待するのは愚かだということを悟った。いつしかそれがある種自身の信念となり、創作の評価を恐れることはなくなった(が、同時に創作に対する興味を失った)。

見る側に立つ時、自分は何ら偉そうな立場に無いが、ゲームにしろ漫画にしろ、数々の作品の裏に隠れた作り手の不安というものがどこか透けて見え、しかしそれを自分が評価できる立場にあると実感することがある。

しかし実のところ、見る側、評価する側もまたその価値を問われているのである。その作品を評価したということは、その作品に宿る価値に共鳴したということであり、受け手は一見無傷に見えるかもしれないが、その価値づけが結局のところ自分に返ってくる。

そう考えると評価されるというのは自身と相手との間でどれだけ共鳴が生まれたかということに過ぎないとわかる。他人の評価などその程度のものでしかない。そうであれば、多くの人間との共鳴を期待するよりも、共鳴できる数少ない人間がいればそれで足るという先人の悟りも頷ける。

自分が見る側に立つ時、その絵が、そのゲームが、その作品が、そのツイッターアカウントが、自分と共鳴できるかを考える。その選択はやはり自分自身に権利を与えるべきだろう。価値観の合わないものには合わないと恐れず思ってよく、しかしその作品に注がれた背景と努力には(例え駄作であれ)敬意を表する。少なくとも自分は見る側の優越を濫用してあらゆる価値を意図的に貶めるようなことはしたくない。そうしたところで、結局自分にその事実が返ってくるだけである。