人生

やっていきましょう

1000日目

記録をつけてから1000日が経ったということでこの数年間の人生を振り返ってみたが、特に何かが劇的に変わったことはなかった。毎日自分の考えを整理し続ける中でいくつかのことは頭に残り、そうでないものは忘れてしまった。それが血肉となり自分に成功をもたらすということは無かった。しかし何もせず3年を過ごすよりは良いことをしたと思う。息を吐くように言葉を書きなぐるという経験は、考えることへの苦手意識を多少薄めてくれたように思う。

今後記録をどうするかということについて考えた。当時の目的である実生活の根本的な改善や、自尊心回復のための自己言及といった目的はとうに意味を失っている。もう一度同じことをしようと思えばできるが、当時の焦りや不安が今はない。これも当時予見していたことだが、自分がかつて「いずれすべてがどうでもよくなってしまう」と言った、まさにその通りの人間になってしまった。何もしてこなかったわけではなく、自分を改善し、自尊心を回復させようとした結果、そうなってしまったのである。

そのため、今ここで記録をやめても良いと思っていた。これ以上記録をつけたところで、ゲームの感想か、日ごろのもやもやしたことや、過去に何度も考えては忘れていた話題を、突然新しくひらめいたかのように直感に導かれて書きつける不毛な作業を繰り返すだけだ。何の面白みもない。おそらくそれを繰り返したところで自分は急に成長もしないし、性格が180度変わるわけではないだろう。今の自分にとって記録はただのブログ、自己満足に過ぎなくなっている。

しかし1000日を経て色々と変わったことがある。その変化が自分の中で記録をつけることの新たな動機になっているということは否定できない。自己改善や自己言及の話題が、焦りや不安無しに素直に表現できるという自信が今の自分にはある。意味のないことかもしれないが、自分はそれを書いてみたいと思っている。そのため、自分はもう少し記録を続けてみることにした。

改めて思うと、記録は自分の武器だと思うようになった。記録をつけるという習慣があることで、自分は1日に必ず一回は自分の思考と向き合わざるを得なくなった。それまで何も考えていなくても、さて何を考えるかと考え始めたときにその日考えたことを更に掘り下げることになる。この積み重ねがこの3年で築き上げた財産なのだろうと思うと、それが今後の人生の支えになるだろうという気がしている。

ただそれは思考の自発的な深化に経験があるというだけであり、思考の正誤、知識の不足をすべて補うものではない。自分の内面と向き合い続けたことで視野狭窄になり、頑固になり、連想から導き出された思い付きを正当化するようになりかねないという点には注意がいる。この自分の陥りやすい傾向を注視するという習慣も記録によって身に付いたものだが、本当に自分がそうなってしまいかねないという不安があるので経験を誇るということを自分はしない。

今後の抱負だが、とりあえずは英語の試験を済ませる。同時に創作を完成させる。可能であれば既存の話題は減らしていきたい。全体的に思考よりも行動に重きを置いた記録をつけられると良いと思う。新たな挑戦がしたい。知識もどんどん吸収できればと思う。