人生

やっていきましょう

自分はTwitterでツイートをすることがあまりない。他人のツイートをリツイートするだけで、自身の情報を発信することがほとんどない。MMORPGでも同様である。自分から言葉を発し会話をするということがあまりない。フレンドは何人かいるが、フレンドチャットを使うことがあまりない。

これは自分にとってまったく普通のことだった。多くを語らないということが自分の中でひとつのスタイルになっていた。Twitterに関して言えば、情報を発信しないというところにある種の妙というか面白さがあると思った。おそらくブログで書くような長々とした無意味な情報を発信することの自責から、その自虐として沈黙を選んだとも言えなくはない(かつて自分はツイッターにブログのリンクを毎日張っていた。それも迷惑だと思い今ではしなくなった)。

ふと自分は、他人からどう思われているのだろうかと考えた。まったく自分を出さない自分。タイムライン流すリツイートは奇妙なものばかり。ブログは意味不明、おそらく自分は周りに警戒されているのではと思った。

自分はこれらのことを意識的にやっていた。自分は狂人ではない。周りの人間との対話可能性はできるだけ維持するように努めてきた。しかしそれを分かっているのは自分だけである。他人からすれば異物がなぜかそこにあるみたいな印象を抱くのではないか。

なぜ異物と捉えられるか。それは他人との間に交流を持たないからである。昔ある知り合いのゲーマーがいた。その人間は(おそらく能力的に)人と会話することができなかった。日本語が正しく打てなかった。人一倍チャットが遅かった。なぜか配信だけは続けている。一体誰が見ているのか?その人が勝手に他人の名前を使うという事件があった。それがその人なりの自己表現であり、友好を示すやり方だったのだろう。しかし周りはそれを気味悪がった。それに対して周りは謝罪を要請した。しかしその人にはそれがうまくできなかった。おそらく表現に難がある人間だったからだ。

この人にもっと交流があれば、「そういう人」として納得されたかもしれない。あるいはもっと自己表現ができる人間であれば、共感はされなくても多少の理解はされただろう。異質なプレイヤーはゲーム内の知り合いの中にも何人かいる。しかしうまくやれているのは、大体その異質さに対してどこかで信頼を得ている人間だ。

自分はその振る舞いがおそらく最低限できていると思っていた。自分から人に話を出すことはあまりなかったが、声をかけられれば自分が最低限対話可能な人間であることを示してきたつもりでいる。

だがひょっとしたらそう思っているのは自分だけで、他の人はまだ自分を警戒しているのではないかと思った。これは関わってきた個々の人間によって異なるから何ともいえないが、全体的な傾向として身近な人からもどこか距離を取られているのを自覚するのである。そしてそれはおそらく妄想ではないだろう。

自分は言葉を交わすことが信頼につながるという視点をあまり持ってこなかった。お互いに分かり合える部分が多ければ、信頼関係を築くことができる。自分は自分のスタイルを当分変えるつもりはないが、自分の沈黙が信頼を損ねている可能性についてはもっと考えるべきだと思った。自分もまた他人を警戒しているのであり、その不安が少しでも和らげばもっと他人に信頼されるのではないかと思った。