人生

やっていきましょう

1023日目

人生の中で分からないことに直面することはよくある。そういう時に自分はいつも分からない自分に見て見ぬ振りをしてしまう。こうした甘えを自分の中に許さないためにこうして記録を書いていても、どこか自分のプライドを傷つけまいとする動きが働く。

こうした自己保身は結局全部自分に返ってくる。事実として分からないままの問題は分からないままだし、それらが隠蔽され放置されたという事実もまた変わらないままである。かといってそうした弱さを誰かが指摘してくれるわけでもない。結局は自分が注意しておかなければならない。

分からない問題に直面したときどうするかということは以前からずっと考えていたことだ。大前提としてまずは自分には分かって当然だという考えを捨てることだ。自分の理解度は、自分が実際に理解している程度を超えることはない。自分は常に自分の限界の内にある。したがって理解は当然のものではないが、しかしそれらは程度を持って存在する。

次にそれらが現状の理解度で把握できる問題かを考える。専門性が高く明らかに理解が追い付かない分野、もしくはまったくの非合理の問題に直面したときはそれらを理解できないモノとして受け入れる。つまりは保留にするということだが、そうした場合は問題の対処に理解だけを突き詰めるのではなく、別のアプローチができないかを考える。理解とは対処の一手段でしかない。一方で全く未知の分野であってもこれまでの理解度理解力を通して理解できるものであれば、まずは理解してみようと考える。

理解というのは、無知のベールを剥がして情報を整理する作業だと考えている。普段自分が理解していないものというのは、そもそも意識にすら上がってこない。自分は毎日電気を使っているが、その仕組みについてまったく知らずどういうわけか「デンキ」なるものが家が送られてくるから使っている程度の理解度である。ベールを剥がすというのは、自分がいまその程度の理解度であるということを直視して認めることである。

それができたら、次はその認識の解像度を上げる必要がある。つまり、自分の理解度のレベルを一目見てなんとなく把握できた【印象】から、必要に応じて普段意識に上がってこない部分にまで細分化し【場合分け】を行う必要がある。例えば英語であれば、適当にリスニングを流して問題文を解いたで終わらせるのではなく、リスニングパートのPart3.4の練習問題をいくつか解き、その答えがどうしてそうなるのかを解説文を読みながら確認した、あるいは音声をシャドーイングして耳を鳴らした、といった具体的な部分にまで理解の範囲を分割する。

プライドを捨て、無知の程度を直視し、そこから理解度を上げていく。言うのは簡単だが、なかなかできることではない。第一にベールを剥がせないということがその人個人の人格と密接に繋がっている場合がある。中途半端に賢い層などはそうした傾向によくある。そうなると容易に無知を認めることはできない。またそこまではできても、自分の無知の程度を知ったことで自信喪失に陥らないとも限らない。自分はこの程度かと意気消沈して無気力になる。理想と現実の差が大きければ大きいほどそうなりやすい。そして仮にそこまでできたとしても、そこから自分を強化していくことはもっと難しい。そこまでして自分を成長させる理由が大抵の場合存在しないからだ。

最近自分も、この問題について完全に忘却していた。自分は建て直すと千日ほど前に決意したが、今では今ある環境に甘んじて生きており、拭えない虚無感を背負いながら、目の前の狭い現実を生きている。分からないことは視界から消し、自分の分かる範囲で万能感を味わっている。ふとした思い付きを言葉にしたかと思えばすぐに消えて忘れる。ゲームでも勉強でも、うまくいかないことがあれば何が問題かではなくうまくいかないことそのものに苛立ち感情を害する。その理解力や対応能力の無さを自分ではなく内心他人のせいにする。そうした自分を諫めるためにつけた記録も、いつしか記録をつけているから自分は分かっている方の人間であるという欺瞞に方便を与えてしまっている。

こうした妄想に支配されつつあるときに、自分は初心を思い出せという。一度ゼロに戻して考えてみる。自分は元からどうでもいい人間である。自分の地位や立場に左右されず、誠実な理解を努める。理解できないものは理解できないと認める。理解できるものは程度をもって理解できるものと認める。その事実は自分を責める材料ではない。それらを使って責めているのは自分である。多少の影響は伴うとはいえ、事実は自分の人格評価とは独立した事実でしかない。認めがたい事実も反省材料として見れば良い教材になる。