人生

やっていきましょう

939日目

陰謀論似非科学、妄想などを信じてしまう人間をまったく別世界の存在だとは思えない。自分が正しいと思う何かは、あるいは自分が正しいと思ったその過程は、おそらく多分に誤解を含んだものであるだろう。そうであるならば、自分は妄想と現実の区別をそれほどつけられていないのかもしれない。

妄想を抱かずに済んでいる多くの人間は、それに代替される安定した信念を抱いているからかもしれないとよく考える。自分が科学というものを荒唐無稽な妄想としてではなく事実に近いものと捉えているのは、論理的な手続きを経てそう結論づけたのではなく、実は何となくそれが正しそうだと思っているからだ。

陰謀論や宗教に没頭しない人間は無関心という信念に救われているのかもしれない。身の安全が確保され、精神的に安定し、衣食住があって、没頭できる趣味がある。それゆえに妄想を冷笑できる余裕がある。

しかしそれらがすべて失われたとき、はたして自分は妄想の虜にならないと言えるだろうか。苦難にあっては自分がこんな状態にあるのは間違っていると思いたがり、何かあれば他人のせいにしたがり、不安の中で救いを求めたり、不当だと思うことには何であれ自分が正しいと思いたがるのが自分だ。自分が数年前に挫折した時、何かの弾みで事件を起こしたり、自殺したり、発狂したり、宗教や陰謀に救いを求める可能性は十分にあった。余裕が無くなるとはそういうことだ。虚無に陥ったとはいえ、そうならなかったのはただ単に運が良かったのかもしれない。

妄想に対して自分にできることは何か。それは自分は過ち得るということを常に意識することである。自分は多くの物事を知らず、何も理解をしていない分野が多くある。したがってそれらに対しては、たとえ自分が独創的な発想だと思っていても、ほとんどは素人意見である。よって自らが明確な根拠を持たずに抱く安易な妄想、直情的な感情などは信じるに値しない。このように考える必要がある。

しかしその一方で、自分には長年試行錯誤を積み重ねてきたという事実がある。その精度は粗いとは言え、まったくの無ではない。自分はある初歩的な分野においては、何らかの安定した思考と判断を有している。その事実もまた受け入れる必要がある。人が万能ではなく、何らかの妄想を抱かなければならないとするならば、自分は常に自己を批判し、絶えず自分の過ち得る可能性と戦うことを選ぶ。それが苦難にあっても安易な妄想を退けるものになると信じている。