人生

やっていきましょう

1059日目

親戚の訃報があって今日通夜に参列した。亡くなったのは自分の従弟で歳は自分と近い方だった。長い間会っていなかったが、病気を抱えていたことは知らなかった。

夕方から夜にかけて親戚総出で葬儀の準備に参加し、数時間かけて通夜の参列者を迎え入れた。大勢の関係者が参列しており、亡くなった従弟の人望の厚さが感じられた。

従弟との思い出は幼少期のものしかない。地元の祭りで盛り上がったこと、ゲームボーイで遊んだこと、家に遊びに行って楽しんだことをよく覚えている。そうした記憶はどこか遠くの出来事のように感じていた。しかしそれでも自分にとっては大事な記憶だった。

通夜を迎えている間、自分は奇妙な感覚を覚えていた。それは何から何まで現実的でないという感覚だった。実際に喪に服し、通夜に参列し、並べられた思い出の品を見て、本人の顔を見て、お経を耳にして、焼香をあげ、故人に合掌して尚、自分がここにいて、従弟が本当に亡くなったということが本当のことだとは思えなかった。

自分の祖父が亡くなった時に感じた喪失感を覚えている。親しい人が亡くなり、その現実が受け入れられなくなると突然心に穴が開いた状態になる。だが今回は違う。喪失感はなく、悲しみもなく、ひとつの疎外感だけがあった。

従弟と関わる機会がなかったこともあるかもしれない。だがかつての自分であれば、祖父の時に感じた喪失感や悲しみを感じられていたであろうことは想像がつく。しかし今回は何もなかった。空虚であるという一点のみが自分の心を支配した。

自分はこの感情の無さを、通夜を最後までやり遂げなければならないという思いで正当化した。自分は運営の側であり、関係者を迎える立場にある。だから自分がしっかりしなければならないと言い聞かせた。しかしそれはただの誤魔化しでしかない。

3年前精神的に打ちのめされて以来、自分の心は死んだものと思っていた。あるいは自分の人生は終わったと思っていた。だから自分が葬儀を運営する親族の側に立ち、親戚と顔を合わせ、従弟の死を悼むという側にいることに違和感しかなかった。むしろ亡くなった側にいるはずの自分が、なぜか生きている側としてふるまわなければならなかったことに混乱した。

この混乱について自分はこれ以上考える余裕がなかった。とにかく今日は忙しかった。親戚と協力して最後までやり遂げた。明日の告別式までは気が抜けない。