人生

やっていきましょう

1073日目

漫画やアニメを見て気づいたことだが、それらの作品は外面的な表現、つまりは自他の意識や内面ではない、視覚的諸要素の演出に力点が置かれていると感じた。

これは自分の創作にはなかったものだ。これまでの自分はあまりにも自他の内面に意識を向けすぎていた。その結果、内面を表現することはできても、それを映像的に演出するとなるとその拙さに目を覆いたくなるほどだった。これは自分が内面というものを個々の身体性に仮託して表現してこなかったこと、またはそもそも外面を表現したいという動機が欠落していたことに由来する。

ゲームを作り始めた頃自分は相当に病んでいて、ひたすら自分の内面を演出しようとばかりしていた。しかしそのゲームは内面的関心の深さに反して、外面的関心の浅さが透けて見える作品だった(だから違和感があり見ていて苦しかった)。

2.3年前から全体的な改築に手をかけているが、明らかにゲームとしてはこちらの方がよくできていると感じる。それは無意識のうちに自分の内面ではなく、徐々に自分の意識の外部で起こるものの面白さに関心が推移していったからだ。

面白さというものが狙って生み出せるようなものではないにしても、まずは面白いと思えるものを生み出そうとしなければ始まらない。そしてその面白さとは、自分の内面告白というシリアスな動機からは決して生まれないということも悟った。そうした深刻さをぶち壊しにするようなものでなければ面白くはならない。

表現に行き詰まった時、自分は内面への関心に埋もれかけていないかを考えた方がいい。視点を変えて、意識の外部に存在する要素を組み込むことで、行き詰まった場の流れが動き出すことがある。例えば自分のゲームの登場人物は(敵でさえ)やたらに何でも対話で解決しようとする傾向にあるが、選択肢はそればかりでなく、自分や相手が問答無用に殴りかかって解決しても良いのである。または自分と相手のどちらでもない第三勢力、あるいは偶発的なアクシデントを組み込むことによって状況が動き出すということもある。何が何でも個人の対話で終わらせなければならないというわけではない。