人生

やっていきましょう

1108日目

本を読んだのは久々だった。それまで読書の関心がほとんど薄れていたからだ。それでも自分が読んだのは、図書館に返却し忘れていた本があったことを思い出したからだ。期限が大幅に過ぎていたので、明日返そうと思って一気に読み込んだ。

読んだ本は『ハツカネズミと人間』という、スタインベックの短編小説だった。自分がこの話を知ったのは英文学の講義や図書館からではなく、実はTeamfortress 2に投稿されたある動画だった。

www.youtube.com

小説をモデルにしたというだけで厳密には話の流れに沿ってはいない(と明記されている)が、自分はこの映像作品に心惹かれるものがあった。大学時代に見たきりでいつしか忘れてしまっていたが、ふとしたことで思い出し図書館で借りることにした。

小説は邦訳本を読んだが、簡単な文体で比較的読みやすいものだった。話の内容についてはここでは書かないが、個人的にはとても心に来る内容だった(残念ながらオチは既に知ってしまっていた)。しかし自分の関心を惹いたのは内容というよりは、むしろ登場人物の方だった。

奇妙なことに、登場人物の大半がとても身近に感じられた。大男だが頭のないレニー、小柄だが面倒見の良いジョージ、腕と友人を失い希望を見いだせずにいる老人キャンディ、黒人ゆえに差別され、皮肉屋になり自分の殻に引きこもるクルックス、人望が厚くすべての事情を知るスリム、彼らの一人一人が自分の性格のある一部を映し出したように見えた(カーリー夫妻やカールソンは自分とはまた遠い存在だった。しかし確かにそうした人間は存在する)。

特に自分が感情移入して読んでいたのはレニーだった。レニーは力持ちで図体ばかりは大きいが、軽い知的障害を持っていて自分の頭で考えることができなかった。自分で自分を制御できず、それゆえにジョージに頼ることしかできなかった。

自分は頭の悪い人間の描写を見ると、特に共感を覚える傾向にある。『アルジャーノンに花束を』を見たときもそうだったし、フォレストガンプを見たときもそう感じていた。Sekiroで小太郎と話した時もそうだった。彼らが自分の心を打つのは、彼らが素朴であり、しかしどうしたら良いか分からないでいることの方が多いからだ。レニーの生き方は自分の人生と重なるところがある。自分の頭の悪さゆえに自分で何もできず、下手なやり方がかえって事態を悪くする。彼らを見ると辛くもなるし同情もする。

Twitterで知ったことだが、ある知的障碍者がアイドルにファンレターを送ったことがあった。彼は汚い字で純粋な思いを伝えようとしていたが、それがあまりに異常であったためにアイドルを怖がらせ、外野の人間からは狂気の沙汰であるかのような酷評が成されていた。自分もそれを冷笑しないではなかったが、自分にはその異常者の振舞いが多少は理解できる。彼は自分がどうしたらいいのか分かっていないのだ。

カーリーの妻はレニーを「まるで大きな赤ちゃん」と呼んでいたが、まさしくそれは自分なのかもしれない。どうしたら良いか分からない。それが自分の頭の中心を占める問題なのだ。だが自分の人生はそこで止まってはいなかった。ただそこで泣きわめくだけではなく自分は賢くなろうと努力をした。だがそれは無理の上に成り立っており、結局は自分の方向性を見失いすべてを投げ出した。

この兆候は大学時代に最も顕著だった。大学を出て3年経ち、思考に多少の発達が見られたことで今はこうして離れて振り返ることができているが、当時はほとんどレニーのような人間だった。隠さず言えば、大きな子どもであることが当時の自分のアイデンティティの中心的な核だった。まるで抑圧された自己がそのまま冷凍保存され、上京したことで雪解けされてきたかのようだった。

自分はそれまで自分の無知や知能の低さを誤魔化してきたが、やはりそれが自分であり、自分の原点なのである。しかしそれは厳密にいえば能力の問題ではなく、発達の機会をことごとく逃していたことによる。いくつかの事例が示す通り、自分にはやればできることもある。経験不足、見識不足、それらを覆い隠したくなる見栄とプライド、あるいはその反動としてのコンプレックスが現実を歪曲して捉えさせ、ありもしない幻想を映し出しているが、実際はすべてがそうであるわけではない。

自分はどうしようもないバカだという明白な着地点があり、そこからできるところまで歩み出せばいい。ただそれだけの話を、自分はここまで難しく考えすぎている。しかし本当に求めているものは、自分が無能であることの安心感なのだ。レニーにとって世間は難しすぎた。彼にとっては生きることは不安そのものだったに違いない。