人生

やっていきましょう

1113日目

以前見ていたアニメが積極的にネットやゲームの「コアな」ネタを取り入れていてもやもやした記憶がある。そうしたネタは確かに面白いが、作り手がそれを自覚的に埋め込もうとしているという点に興ざめする。最近ではある漫画が別の漫画をネタをオマージュして笑いを取るとったことが話題となった。嫌悪とまでは行かないが、少しだけ気分が曇る。

こうした笑いの何が苦しいかと言えば、コミュニケーションのための笑いだからだろう。自分自身で身を張って勝負する芸人ではなく、ひな壇の上から誰かのネタを笑っている芸能人と同じ匂いがする。自分で笑いを創造するのでなく、誰かをいじって笑うクラスメイトような感じがする。与える側の人間が、受け手の側のつもりでいる感じが苦手なのかもしれない。あるいは安全圏から笑いを取ろうとしている感じが嫌なのか。

しかしこうしたネット文化のネタを取り入れる創作者を否定する気にはなれない。むしろ同情的であり、我が身のことのように考えてしまう。いったい自分自身で勝負できる笑いとは何なのか。どこへ行っても答えはなく、周囲で見かけるのは「正解」とされる表現ばかりだ。ひな壇芸人は「正解」だけを謳歌していればよく、ワナビーは皆「正解」に近づきたがるので自然と似通った作品が量産される。それを冷笑する勢力は現代音楽家のような奇妙な作品しか生み出せない。そうした亜流を好む人間は知った気になったサブカル人間になる。

現代は表現としてのネタが彫りつくされて枯渇している。あるいは自身があまりに多くの笑いに触れ過ぎたために、何も面白くなくなっている。あまりに面白くないので「面白くないもの」でさえ自分の中では笑いの対象となっている。こうした閉塞的な時代の中で表現者としてやっていこうとしている人間は、相当苦しい思いをしているだろうと自分は思う。よほど自分が好きなものに素朴でない限り、オリジナリティの不在、引用とオマージュを繰り返さなければ息継ぎできない状態には耐えられないだろう。

しかし見たところ、そう考えている人が大半というわけではなさそうだ。オリジナリティが無いことに無自覚でいながら楽しんでいる人もいるし、自覚的でも何が悪いと思っている人もいる。彼らからすればこの世は面白いコンテンツに溢れたテーマパークかもしれないが、自分からすればほどんど座る座席のない満員電車の中でどうにか空席を見つけなければならないような焦りと苦しみがある。

こんな調子だから自身の作風は珍妙になるし、切り貼りを続けていくうちに曖昧なものになる。その過程を肯定するつもりはない。明らかにそうやって考えつくされたアイデアは直感的ではないし気分が悪くなる。これならばどこからかアイデアをパクって自分の作品に生かす方がまだ早い。

こうした苦悩の果てに見出せる笑いとは何か。思うに何度も使い古された乾いた笑い、冷笑しか出てこないだろう。結局あれこれ考えすぎて、笑いの中でも最も低俗な部類のものしか出てこなくなるというのがオチである。すなわち自分ただ一人に対する内輪ネタ、唯一の身内に向けられた自虐である。